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激動の歴史 苛烈な会津の秘所は静かで穏やか 会津松平家 墓所散策-院内御廟【会津若松市】散策・観光

あいづ くらし地域情報発信ライター(会津若松市・会津美里町)

飲食、観光、会津ぶらぶら。朝寝、朝湯が大好きな あいづ くらし、です。
(庄助さんばりのダメ人間みたいな自己紹介ですが、そこはご笑覧)
天気が良かった&日頃の運動不足解消に、会津藩主 松平家の墓所を訪ねてきました。

会津藩主 松平家(まつだいらけ)の墓所とは、

会津藩主 松平家は、初代の保科 正之 (ほしな まさゆき) が、会津の大名となった1643年に始まります。
戊辰戦争によって1868年9月に、会津藩が降伏開城する9代 容保 (かたもり)まで、鶴ヶ城(若松城)の城主として会津を治めました。*1
墓所は、藩主、その母、子女等が埋葬される廟所です。
ちなみに、9代目 容保(かたもり)は埋葬されているのですが、初代の正之はここには埋葬されていません。(後述)
*1 現在の会津(地方)とは異なります。現在の南会津の多くは幕府の直轄地でした。

3代藩主から9代藩主まで、全国的にも珍しい神式で埋葬されており、国の史跡として指定。
広大な墓所を散策する事で、会津藩の営みの長さに思いが馳せられます。

会津の奥座敷 東山温泉 東山温泉共同駐車場(無料)

東山温泉は鶴ヶ城(若松城)の東方にあり、会津藩の湯治場として栄え、会津の奥座敷と呼ばれる場所です。

東山温泉共同駐車場入口 会津若松市 福島県
東山温泉共同駐車場入口 会津若松市 福島県

東山温泉へ向かうと、温泉街の手前に大きな案内板があり、そこが東山温泉共同駐車場(無料)になっています。
大きな案内板の手前の白い看板に、「会津藩主松平家墓所、駐車場入口」と案内されています。

東山温泉共同駐車場から会津藩主松平家墓所の方向
東山温泉共同駐車場から会津藩主松平家墓所の方向

この駐車場はとても広く、普段の日に満車になることはありません。
駐車場からは、右に東山温泉街があり、左に墓所への入口があります。

東山温泉共同駐車場から墓所入口を見たところ
東山温泉共同駐車場から墓所入口を見たところ

駐車場から墓所入口までの距離は約150m。
院内御廟 入口と案内されているところなのですが、このように途中、横断歩道がありません。
一旦、東山温泉街へ向かうと、すぐに信号のある横断歩道がありますので、道路を渡ります。

会津藩主松平家墓所前の会津バス「院内バス停」

会津バス 院内バス停 会津藩主松平家墓所前
会津バス 院内バス停 会津藩主松平家墓所前

写真にある「あかべぇ」「ハイカラさん」は「まちなか周遊バス」の名前です。
バスで来られる方は「院内」で降ります。
詳しくは、まちなか周遊バス あかべぇ 会津乗合自動車(会津バス)
をご覧ください。

道路から会津藩主松平家墓所へ向かう道
道路から会津藩主松平家墓所へ向かう道

道路から入っても、すぐに墓所の入口ではありませんでした。
案内では、この先になっています。
山の麓、道の一番奥が墓所の入口です。

会津藩主松平家墓所 院内御廟

「墓所」だったり「院内御廟」だったり、名称が統一されていません。
書きながら気にはしてましたが、看板に「墓所」とあるのに記事に「御廟」とも書けず、その逆も然り。
最初に作られた西之御庭 (にしのおにわ) が院内山 (いんないやま) にあった事から、墓所そのものが院内御廟 (いんない ごびょう) と呼ばれるようになったという事なので、これも歴史の一部とお楽しみください。

会津藩主松平家墓所 院内御廟
会津藩主松平家墓所 院内御廟

会津藩主 松平家墓所 入口。
案内板があり、その横には「貸出し熊鈴」があります。
昨今、全国の町中で「熊が出た」というニュースがありますが、会津も同様。
ましてや、人里に近くとも、院内御廟は山の中、注意が必要です。
見ると貸出しの熊鈴は一つも残っていませんでした。
この後、院内御廟を散策しましたが、他に散策者は無く、熊鈴は持ち帰られたようでした。
返し忘れたのかもしれませんが、借りられた方は忘れないよう注意ください。

会津藩主松平家墓所 院内御廟 案内図
会津藩主松平家墓所 院内御廟 案内図

一巡り約1時間の行程です。
ただし、行きは山登り、帰りは下りになり、程よく高低があります。
普段、トレッキングや山登りをしている人にはなんて事のないコースですが、自分にはちょうど良かった(しみじみと思う)。

会津藩主松平家墓所 院内御廟 愛馬の墓
会津藩主松平家墓所 院内御廟 愛馬の墓

最初に愛馬の墓がありましたが、実際の墓石は斜めに傾いてました。
カメラも斜めにして撮ったので、まっすぐに見える写真になっています。
(何気にみんなやりがちだと思いますが・・・言い訳。後から写真を見て気づきました)

西之御庭(にしのおにわ)

会津藩主松平家墓所 院内御廟 西之御庭 入口
会津藩主松平家墓所 院内御廟 西之御庭 入口

西之御庭への入口、石段の上りになっています。
参道に沿って、山側(入山方向に対して左)

会津藩主松平家墓所 院内御廟 西之御庭
会津藩主松平家墓所 院内御廟 西之御庭

院内御廟で一番最初(一番古い)の場所。
1657年、初代藩主 保科正之の子、正頼(まさより)が死去した際に、この院内山が埋葬地とされました。正頼は、享年18。
ちなみに、保科正之の死去は1672年。

西之御庭には、正頼の他に3代、4代、8代藩主の子供、4代、7代藩主の生母が埋葬されています。
正頼が神式、その他は仏式での埋葬。
墓碑銘を見ると、仏式とされる墓は戒名になっていますが、正頼は戒名になっていません。

中之御庭 (なかのおにわ)

西之御庭と同様に、参道から山側へ入って行った奥にあります。

会津藩主松平家墓所 院内御廟 中之御庭
会津藩主松平家墓所 院内御廟 中之御庭

1665年頃に開かれた場所。
初代〜3代藩主までの家族が埋葬されていて、保科正之の五男、正純(まさずみ)が神式、その他は仏式。

参道 分岐

会津藩主松平家墓所 院内御廟 分岐
会津藩主松平家墓所 院内御廟 分岐

中之御庭のすぐ先で、参道が分岐しています。
ルート的には唯一の分岐点で、「入之峰」「中丸山」のどちらを先にまわるかになります。
9代、容保(かたもり)の墓は「入之峰」にあるので、「中丸山」から見てまわります。

分岐の右(谷側)へ進みます。

拝殿

会津藩主松平家墓所 院内御廟 拝殿
会津藩主松平家墓所 院内御廟 拝殿

院内御廟の唯一の木造建築物。
木造の建築物が、もう少しあったのではないかと思うのですが、いずれ、往時の姿で院内御廟全体が復元・整備されればと願うところ。

中丸山

会津藩主松平家墓所 院内御廟 中丸山
会津藩主松平家墓所 院内御廟 中丸山

中丸山は、4代藩主、容貞(かたさだ)と8代藩主、容敬(かたたか)の埋葬地。
写真は8代藩主の容敬。
右手前にあるのが碑石-亀趺(きふ)を台座とする石碑。
中央に小さく見えるのが表石(ひょうせき)で、その右隣に小さく白っぽいのが鎮石(しずめいし)。
藩主は鎮石のところに埋葬されています。
神式の墓です。

会津藩主松平家墓所 院内御廟 中丸山入口
会津藩主松平家墓所 院内御廟 中丸山入口

中丸山には背炙り山 (せあぶりやま) へ向かう道路と接続する入口があります。
以前、背炙り山から帰る途中に、この入口を起点にして墓所をまわった事があります。
こちらの「貸出し熊鈴」は全てありました、「あった所に返して」と案内があります。
小銭が置かれていて、多分、借りた人が置いたのでしょう。
熊鈴を借りてはいないけど、小銭を少し置きました。

入之峰

会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 碑石
会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 碑石

入之峰 碑石。
入之峰には、
第3代藩主、正容 (まさかた)
第5代藩主、容頌 (かたのぶ)
第6代藩主、容住 (かたおき)
第7代藩主、容衆 (かたひろ)
が埋葬されています。

会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 碑石
会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 碑石

各藩主の表石や鎮石は、碑石より高い場所にあり、石段を登ります。
石碑の台座の亀趺(きふ)は、亀の形をしていますが、耳や牙を持ち、指も5本ある伝説上の動物。
院内御廟の亀趺は、全て表石や鎮石を向いています。
上の写真の亀趺が向いているのは、下の写真。

会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 表石と鎮石
会津藩主松平家墓所 院内御廟 入之峰 表石と鎮石

手前には石灯籠があり、その奥に表石と鎮石が見えるのですが、立ち入り禁止になっています。

第9代藩主、容保 (かたもり)

入之峰の最奥から石段を登ると、会津藩最後の藩主、第9代 容保 (かたもり)の埋葬地。

第9代藩主、容保 (かたもり)埋葬地
第9代藩主、容保 (かたもり)埋葬地

松平 容保は高須藩 (岐阜県海津市付近) 藩主の六男として生まれ、後に、会津藩第8代藩主、容敬の養子となります。
会津松平家の家風教育から、幕末における幕府及び徳川家からの強い信任を受けるに至り、それが京都守護職ひいては、戊辰戦争(会津戦争)という激動を生きた会津藩最後の藩主となりました。
初代藩主もドラマティックな人生でしたが、松平 容保もまた波乱に満ちた人生でした。
晩年は、徳川家康をお祭りしている日光東照宮の宮司を務めました。

松平 容保が無くなった時には、会津藩は既に無くなっていたわけですが、大正6年(1917年)、戊辰五十周年の時に、松平家の菩提寺の正受院というお寺から改葬されました。

碑石も灯籠も表石も鎮石も、どれも真新しく見えます。

会津第9代藩主、松平 容保 (かたもり) 表石
会津第9代藩主、松平 容保 (かたもり) 表石

松平 容保 (かたもり) 表石で、この後ろに鎮石があります。
左側には、松平家(容保の家族)の墓もありました。

会津第9代藩主、松平 容保 (かたもり) 鎮石
会津第9代藩主、松平 容保 (かたもり) 鎮石

他の場所は「立ち入り禁止」でしたが、容保の鎮石は近くで見ることができました。

初代藩主、保科 正之 墓所

保科 正之は、徳川幕府2代将軍、秀忠の4男として生まれましたが、庶子(正室でない子)であった為、信濃国高遠(たかとう、長野県伊那市)藩主の保科正光の子として育てられ、後に高遠藩3万石の藩主となります。
徳川幕府3代将軍の家光から異母弟の正之は重用されました。
謹直で有能であった事から、破格の待遇を持って内外に肉親として知らしめられ、後に出羽国山形藩20万石、更に陸奥国会津藩23万石の大名として引き立てられました。
これが1643年の事、会津藩主 松平家の始まりです。
保科 正之は「会津家訓十五箇条」(あいづ かきん)を定めました。
これは、会津松平家のみならず、藩の方針として、藩士の家の規範となっていきます。
その第一条は、
会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」とあり、この家訓が連綿と第9代藩主の容保の時代まで引き継がれ、容保は幕末にあってこの家訓を堅持しました。
将軍家に対して、謙虚でいて断固とした決意が現れています。
そんな正之ですから、松平姓を名乗るように勧められても、保科家への恩義もあってそれを固辞します。松平姓と葵の紋を使用するのは、第3代藩主、正容になってからです。

墓所は、保科 正之の遺言で、福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にあり、墓所に隣接して土津神社(はにつ じんじゃ)が建立され、保科 正之が祭神として祀られています。

会津の秘所 (ひしょ)

院内御廟は、町の喧騒から遠くにあって、厳かな場所でした。
「秘所」には「死者の霊魂が行く場所」という意味があり、秘密の場所というわけではありません。
傷んだ箇所も多々ありますが、徐々に補修もされています。
夏には蝉時雨に包まれ、院内御廟も騒がしくなるでしょう。
秋には紅葉が、冬には雪景色に変わり、また、静寂に包まれるでしょう。
会津藩主 松平家墓所 院内御廟は、会津の秘所として四季折々の歴史散歩が楽しめます。

【会津松平家墓所 (院内御廟) 】
住所:〒965-0813 福島県会津若松市東山町大字石山字墓山
アクセス:バス停「院内」から松平家墓所入口まで徒歩5分
駐車場:東山温泉共同駐車場
電話番号:0242-39-1305 (会津若松市役所 文化課)
地図、ナビ用リンク (行き方/アクセス)

散策コースとして、自分にはいい距離と高低差。
駐車場からは少し距離がありますが、これも散策の一部と思えば楽しい。

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