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【三鷹市】太宰が歩いた「跨線橋」が撤去間近

AZUSA

大学院生/フリー編集者/図書館司書(武蔵野市・三鷹市)

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永遠の「流行作家」といわれる太宰治。1909年(明治42)、青森県津軽の裕福な家に生まれた太宰は、もはや生誕100年を超えます。そのときどきで新しい感性をもつ10代から20代に圧倒的人気を誇ること、ルックスと文体が洒脱で、流行を感じさせるめざましさが姿にも文体にもあること、そして戦前から戦中にかけて多くの作家が元気をなくし、検閲を前に筆を折ったのに比し、太宰一人が「走れメロス」など元気な作品をかっ飛ばし、出版文化を支えていたこと……つまり、「流行作家」の条件をすべて兼ね備え、今も兼ね続けている、奇跡のような作家であるわけです。「現代の流行作家は太宰のカリカチュアに過ぎない」という言葉もあるほど。
常に新鮮であり続ける太宰ですが、それでも、時の流れを感じさせるものが彼が30歳から39歳までの9年を過ごした三鷹のあちこちで見られます。

39歳で恋人と心中して亡くなった太宰は、永遠に無謀な青春作家でもある
39歳で恋人と心中して亡くなった太宰は、永遠に無謀な青春作家でもある

高円寺、井の頭公園、三鷹……太宰の作品に次々登場する中央線沿い

 太宰が越してきた昭和10年代は、三鷹はまだ「東京府下三鷹町」であり、界隈はのんびりした畑でした。新妻と上京することになったとき、彼は銀座だろうが上野だろうがどこにでも行ける、世界は俺のものだというような感慨を抱きましたが、結局家賃との折り合いがつかず、東京府下に……。それは大変な落ち込みようだったらしいのですが、それでも、子供にも恵まれてこの地に足をつけて書いていこうと決心します(「ヴィヨンの妻」)。井の頭公園で雪に降られた話(「雪の夜」)、太宰に憧れた文学青年が小さな借家に訪ねてきてくれた話など、短編に登場する「中央線群」が昭和の暮らしを彷彿とさせてくれます。

引っ越し魔だった太宰は三鷹のあちこちに住み移りました。すべてに看板が残る
引っ越し魔だった太宰は三鷹のあちこちに住み移りました。すべてに看板が残る

跨線橋は当時の「鉄ちゃん」にも人気だった

「ちょっといいところがある」
 人が訪ねてきたときに太宰がぶらっと散歩がてら案内したのが、三鷹駅の南北にまたがる跨線橋(こせんきょう)です。昭和の始めに、三鷹駅の北口と南口で行き来しやすいよう、明治・大正期の古レールを利用して架けられました。中央線を走る赤い車両、そして東西線の銀色の車両も見おろせる陸橋は、鉄道ファンの間でも知られていたそうです。SやUの字を描く線路がここまでダイナミックに見下ろせる陸橋は、今も他にないでしょう。

全長93 メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。通り沿いは「電車庫通り」と呼ばれる
全長93 メートル、幅約3メートル、高さ約5メートル。通り沿いは「電車庫通り」と呼ばれる

百年の風雪に耐えた、いとおしい錆び

 周囲にさえぎるビルがないからか、5メートルよりもっと高く見えます。建設から92年が過ぎ、錆びも出て、揺れもする陸橋は今年、ついに取り壊しが決まりました。文化施設として残す案もありましたが、耐震工事をすると、何億円もかかってしまうのだそうです。ぜひ今のうち上っておきましょう!

一段一段、武蔵野の真っ赤な夕日を見るために上りました
一段一段、武蔵野の真っ赤な夕日を見るために上りました

渡っている間にも電車の音がひっきりなし。ところどころ緑なのは、塗装しかけて挫折した歴史跡
渡っている間にも電車の音がひっきりなし。ところどころ緑なのは、塗装しかけて挫折した歴史跡

空には電車を見下ろす橋、地には水流さわやかな玉川上水
空には電車を見下ろす橋、地には水流さわやかな玉川上水

橋がなくなると北から南へどう渡るの……と思ってしまいますが、250メートルの地下道あり。これも昭和完成
橋がなくなると北から南へどう渡るの……と思ってしまいますが、250メートルの地下道あり。これも昭和完成

いかがでしたか。撤去日はまだ未定ですが、ぼちぼち撮影に来る人も増えています。昭和の面影と太宰をしのんでぜひ渡りに来てください。
三鷹駅南口から歩10分/または三鷹・武蔵境循環バスで跨線橋下車

三鷹ナビを見る 外部リンク

太宰に関する様々なイベントも紹介する古本カフェ(外部リンク)「フォスフォレッセンス」

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