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「原発事故さえなければ」窯元を廃業した陶芸師 12年たっても続く苦渋の選択 #知り続ける

後藤秀典ジャーナリスト

ガシャ、グシャ、ガラガラガラ。伝統工芸品の陶器が容赦なく砕かれる音が響く。東京電力福島第一原子力発電所から10キロ内陸の福島県浪江町大堀。300年以上の歴史をもつ大堀相馬焼の郷(さと)だ。2011年3月、原発事故で発生した放射性物質を含むプルーム(雲)が上空を通過し、この地は汚染された。帰還困難区域に指定され、全住民が強制避難させられた。12年後の2023年春、大堀は「文化的な価値のある施設」として避難指示が解除されることになり、国費による除染と建物の解体が急ピッチで進んでいる。工房や家屋の解体は先延ばしもできたが、そうすると多額の自己負担が発生する可能性がある。このためほとんどの窯元が、除染と同時に建物を解体する決断をした。原発事故は当事者ではない人々の記憶から薄れつつあるが、いまだに苦渋の選択を迫られる人たちがいる。

●2021年1月13日 陶芸師は東京のタワマンにいた
東京ベイエリア。林立するタワーマンションの一室に、浪江町大堀から避難してきた長橋明孝さん(当時81)が暮らしていた。伝統工芸士に認定された陶芸師だ。原発事故後、町内の避難所、郡山の親戚宅、喜多方の温泉宿、都内の次男のマンション、埼玉の長男のマンション、そして都内の国家公務員住宅を転々としてきた。東京電力の賠償によりこのマンションに移り住んだのは、2017年のことだった。「商売は順調だったんだ。息子も跡継いでやってるしね。陶芸教室なんかもやって、充実はしてきてたんだ。まさか原発が爆発するとは思わなかったな。こんなことになるとは」と長橋さんは話す。

跡取りとして一緒に働いていた長男とは、窯元の再開について何度も話し合った。「放射能は怖い」。長男が何よりも気にしたのは、放射性物質による汚染だった。結局、長男は埼玉に移り住み、陶芸以外の仕事についた。「せがれが『もうやらない』って言うからあきらめたけどな……」。長橋さんは、東京のマンションへの移住を機に窯元を廃業した。

伝統的な大堀相馬焼は独特の青と細かいひび、疾走する馬の絵付けが特徴で、二重構造により熱湯を入れても熱くならない湯飲みでも知られてきた。かつては23の窯元が軒を連ねたその郷で、長橋さんは伝統技術を独自に進化させ、より質の高い新たな大堀相馬焼の礎を築いた一人だ。

かつて相馬焼は安価な製品を大量生産し、全国に流通させていた。1950年代には米国を中心に輸出され、二重構造の湯飲みは「ダブルカップ」として人気を博した。だが70年代になると安価な輸入陶器に押され、危機に陥る。そうした中、長橋さんらは製造元ごとに「窯元」を名乗り、独自の技術を生かした付加価値の高い陶器を新たに作り出していった。長橋さんはその技術が認められ、通産省(当時)の企画により米・ロサンゼルスで作陶の実演をするまでになった。皇族が大堀を訪れた時には、長橋さんが焼いたつぼが贈呈された。長橋さんらの伝統技術の継承・革新により、大堀相馬焼は存続してきたと言える。

長橋さんは、妻のヒデ子さんや長男とともに窯元を繫栄させることを何よりの生きがいとしていた。原発事故までは、仕事が終わると長橋さんの工房に毎日のように仲間が集まり、宴会が開かれた。春は山菜採り、夏は鮎釣り、秋にはマツタケ狩りと、恵まれた自然とともに暮らしていた。

避難を強いられた長橋さんが暮らすのは、知り合いはおらず、自然も少ない都会の片隅だ。妻は避難してから膠原病(こうげんびょう)を患い、ほぼ寝たきり。そんな長橋さんの毎日の楽しみは、近所のスーパーで買った福島産の魚をつまみに晩酌することだ。それ以外は、テレビを見て過ごす。「こういうとこ来ちゃうと何もできねえわ。成り行きに任せるしかない。ここでは朝起きて一日テレビ見て。情けねえよ。なんだか寂しいな」と長橋さんはつぶやく。

2022年1月、長橋さんは、久しぶりに大堀を訪れた。避難生活を始めたころは、家財や陶器を片づけるため、年に何度も車を運転し、大堀を訪れていた。その後、パーキンソン病を患って運転ができなくなり、大堀行きの回数はめっきり減っていた。

作品を売っていた店舗の2階に上ると、大きなつぼが50個ほど並んでいた。急須や湯飲みなど普段使いの器とは違い、伝統工芸士の技を駆使して作陶した芸術品だ。「大きいつぼは、上下二つに分けて作るんだ。両方の大きさが少しでも違うと、焼くときに割れてしまう。大変なんだ」と長橋さん。値札には数万円から30数万円と記されていた。すべてを東京のマンションに持っていくことはできず、ここに放置しておくほかない。「やあ、がっくりだ。あんまり見たくない」と長橋さんは肩を落とした。かつて仲間が集まった場所には、生ビールのサーバーや肉まんの蒸し器、酒瓶など、宴(うたげ)のあとがそのまま残っていた。

●2022年7月30日 最愛の妻を失った
60年ほども連れ添ったヒデ子さんが、がんで亡くなった。大堀にいたころは、窯元の経理や事務を一手に引き受けていた。「いつか帰るその時まで 夢を捨てない」。ヒデ子さんは亡くなる前に、こう書き残していた。「帰りたかったんだ」。長橋さんは遺影に向かって声をかけた。

大堀では、葬儀は集落中の人たちが集まる一大行事だった。だが、ヒデ子さんの葬儀に弔問客は呼ばず、家族だけで行った。長橋家の墓は、帰還困難区域内にある。放射性物質の汚染が残る墓地に家族が集まり、納骨するのは難しい。納骨してしまえば、今度は墓参りが難しくなる。長橋さんは「早く大堀に帰してやりたいが、避難解除されてから、家族みんなで納骨してやるんだ」と話す。遺骨は、東京のマンションに置かれたままだ。

長橋さんの工房と家屋は、2023年1月に解体されることが決まった。春の避難指示解除に向け除染が進む中、長橋さんもほかの多くの窯元と同じように、除染と同時に自宅と工房を解体する選択をせざるを得なかった。避難解除後1年以内に除染とともに建物を解体すれば、費用は国が負担する。だが、その後の解体だと住民負担となる可能性がある。自費でとなれば、陶器や粘土、釉薬(ゆうやく)などを産業廃棄物として処理する費用もかかり、総額は数百万円に上ると見られる。地震から10年以上放置された建物の内部は動物にも荒らされ、大規模な修繕をしなければ住むことも仕事をすることもできない。

浪江町の中心部は、大堀より一足先に避難解除されている。そこに2021年オープンした道の駅には大堀相馬焼の販売コーナーがある。窯元を見学するツアーも始まった。廃業する窯元がある一方、必死になって大堀相馬焼の伝統文化を守ろうとする若手もいるのだ。

国、福島県、浪江町の合意で、大堀の避難指示解除は、2023年3月31日午前10時に決まった。しかし、避難解除されても大堀にどれくらいの窯元が戻ってくるかは全く見通せない。若手の多くは県内外の別の場所で作陶を再開し、すでに10年以上もそこで生業(なりわい)と暮らしを築いている。除染は自宅や工房の敷地と農地などに限られ、集落を囲む山林などは手つかずのままだ。そんな場所に子育て中の若い窯元たちが戻ってくるのだろうか。調べた限りでは、避難指示解除後に大堀に戻る意思を示している窯元は1軒のみだ。

「最後に工房の姿を目に焼き付けておきたい」。2022年末、そんな思いで長橋さんは再び大堀を訪ねた。残された陶器をなじみのみんなと少しでも分け合いたい。長橋さんはかつて近所に暮していた親戚たちにも声をかけた。「壊されちゃうんでしょ。もったいない」「痛ましい」。集まった人たちから、そんな声が漏れた。
 
かつて宴を開いた広場で、長橋さんの義理の叔母が作ってきた赤飯や稲荷ずしをみんなで頬張る。「いくつになったんだ?」「今年60」。懐かしい人々と話すうちに、長橋さんの顔もほころんでいく。「また、ここで会おうな」「会いましょう」。別れ際、長橋さんは親戚たちと固く握手を交わした。

工房も家もなくなれば、親戚が集まる場所も理由もなくなる。義理の叔母は、長橋さんの今後を心配する。「ここを全部壊すようになったら、明孝さんがガクってくるのではないかと思うのね。奥さんもいらっしゃらないしね」

2023年1月27日 解体が始まった。「すべては終わりだ」
2023年1月27日。解体が始まって2日目。業者が陶器を袋に詰め込んでいく。少しでもたくさん詰め込むため、ハンマーで陶器を細かく砕いていく。その光景を目の当たりにした長橋さんは、「もうすべて終わりだ」と声を絞り出した。器を砕く音が響く中、長橋さんは自ら作った陶器を一つひとつ、いつくしむように手にとっていく。柄のついた青い小さな器、茶色の香炉……。これから廃棄されるのを待っている器たちだ。「みんな一つひとつ思い出のあるもんばっかだ。もったいないねえ」

陶器が処分されると、建物の解体が始まる。それが終われば、伝統工芸が営まれていた気配すらうかがえない、ただの更地となる。

「原発事故さえなければ、いまもせがれと一緒に毎日忙しく励んでたはずだ。工場も家も瀬戸も苦労して作ったのに、あっという間の事故でこの通りだ」

長橋さんは、深くため息をついた。

クレジット

撮影     :高橋愼二 菊島政之
記事監修   :国分高史
プロデューサー:中原望 井手麻里子
ディレクター :後藤秀典

ジャーナリスト

社会保障関連、原発事故被害、貧困問題、労働問題などを取材。

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