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【その後の鎌倉殿の13人】ついに登場!悪妻?伊賀の方(のえ)の知られざる系譜を辿る

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)6月、父・北条義時の死によって、都から鎌倉に戻った嫡男の北条泰時。その頃、世上では(泰時は、彼の異母弟たちを討ち取るために鎌倉に戻ってきたのではないか)との噂が囁かれていました。そして、その噂に最も身構えたのは、義時の5男・北条政村の周辺でした。

政村の母は、義時の後妻・伊賀の方。伊賀の方は、いつ生まれたのかは不明ですが、伊賀朝光の娘として生を受けました。朝光は、藤原秀郷(平安時代中期の豪族。平将門を討伐したことで有名)の子孫と言われています。朝光は、源頼朝に仕え、承元4年(1210)には伊賀守に任命されます。

朝光の妻は、二階堂行政の娘でした。行政は「鎌倉殿の13人」(頼朝死後に発足したいわゆる13人の合議制)の1人です。朝光と二階堂行政の娘との間に生まれたのが、伊賀の方だったのです。

伊賀の方は、元久2年(1205)6月22日には、政村を産んでいますので、その前年には義時と結ばれていたはずです。

義時は、建仁3年(1203)9月に起きた比企能員の変(頼朝の後継者・源頼家の外戚として勢力を持っていた比企能員とその一族が、北条氏により粛清された政変)の直後に、妻の姫の前(比企朝宗の娘)と離縁していますので、前述のように、おそらく、義時と伊賀の方は、元久元年(1204)に結婚したと思われます。

ちなみに、伊賀の方が政村を産んだ年(1205年)の6月22日は「坂東武者の鑑」とも賞賛される有力御家人・畠山重忠が、北条氏の謀略により討死した日でありました(畠山重忠の乱)。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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