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【その後の鎌倉殿の13人】北条政子が三浦義村の動きを封じるために打った究極の一手

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)7月18日、有力御家人・三浦義村が、北条泰時のもとを訪れ、北条政村の執権就任を企む伊賀光宗を翻意させたことを披瀝。これにて騒動は収まるかに見えました。

ところが、その同じ月の30日。夜に入って、またもや「騒動」が起こったのです。御家人らが皆、旗を掲げ、甲冑を着て、群集。あちらこちらを走り回るという物騒な状況に鎌倉は再び陥ったのでした。

それから暫く経った閏7月1日。その日、北条政子と6歳になる三寅(後の鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経)は、北条泰時の邸にいました。政子はそれまでにも、三浦義村に何度も使者を遣わしていたようです。

使者をして「世の中の物騒な状態を鎮めるよう」に義村に伝えていたとのこと。しかし、昨夜の武装した御家人らが群れ集まるという異常事態を受けて、政子はとうとう義村を呼びつけるのでした。そして義村に次のように伝えます。

「私は今、若君(三寅)を抱き、北条時房や泰時とともに、ここにいます。貴方(義村)もここにいなさい。別行動することはなりません」と。

政子は、おそらく、前夜の騒動に義村が絡んでいたと見ていたのではないでしょうか。よって、これ以上、義村を野放しにしておくことは危険であると判断。「ここにいなさい」と厳命したのでしょう。

「尼将軍」にそう言われては、義村も「嫌」とは言えません。泰時の邸に政子らといる羽目になります。伊賀氏の逆襲は果たしてあるのでしょうか。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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