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【その後の鎌倉殿の13人】ついに決着!?北条政子が伊賀の方らに下した裁きとは?

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)閏7月1日、北条政子は、三浦義村を北条泰時の邸に「監禁」した上で、古参の御家人たちを招集。

彼らを前にして「君主が幼い間(後に将軍となる三寅は、6歳)は、下の者は、謀反心を抑えるのが難しい。私は偶然、長生きしている。それは特別なことでないかもしれないが、我々がこうして生き残っているのは、亡き頼朝様の願うところでもありましょう。それならば、頼朝様の命に従い、我らが心を一つにしていれば、何者かが蜂起しても、大したことはありません」(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)と語りかけました。

それから2日後、今回の騒動に決着を付ける1つの判断がなされます。先ず、政子の御前において、評議が行われたのです(そこには、弟の北条時房、病がちであった大江広元の姿もありました)。

伊賀光宗らは、公卿・一条実雅を「関東将軍」に擁立しようと計ったとして、その処罰が話し合われたのでした。一条実雅は公卿であるので、武家方で勝手に処罰することはできないとして、実雅の身柄は、都の朝廷に差し出すことになりました。そして、朝廷に裁きを一任することとしたのです。

亡き北条義時の後妻・伊賀の方と、伊賀光宗は流罪に決定します。その他の者においては、伊賀氏に味方しようとしたとしても、罪に問わないことにしたのです。厳しい処罰を方々に課したら、かえって、混乱が起きると判断したのでしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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