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【その後の鎌倉殿の13人】北条義時の後妻・伊賀の方の哀れな末路

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応3年(1224)閏7月3日、公卿の一条実雅を将軍に擁立しようとする陰謀があったとして、実雅と伊賀光宗、亡き北条義時の後妻・伊賀の方に処罰が下されました。実雅は、公卿であるとして、先ず、都に連行されることになりました。

伊賀光宗と伊賀の方は、流罪に決定したのです。それから暫くは、大きな動きはありませんでしたが、同月23日、北条泰時の邸周辺で「騒動」があったとのこと(『吾妻鏡』)。どうやら、武者たちが参集し、物々しい雰囲気となっていたようです。日頃はこのようなことはないのに、急にどうしたと人々は怪しんだようですが、午前6時頃になると、騒動は沈静化します。その頃、都に送られる一条実雅の一行が、都に向けて、進発したのでした。

進発後、武者たちは、解散したと言いますから、警戒・警固のため、参集していたのでしょう。その日は、出発に相応しくない、吉日ではない日だったようで、別の日にしてはどうかとの意見もありましたが、受け入れられなかったようです。一条実雅の進発を幕府の上層部が早めたいと思っていたことが要因のようです。

そもそも、今回の騒動は、伊賀氏が実雅の将軍擁立、北条政村の執権就任を目論んだことが原因。そうであるならば、元凶の人物は一刻の早く、鎌倉から出したいと幕府の面々が思っていたとしても不思議ではありません。

同じ月の29日には、伊賀光宗が、政所執事職を解任され、所領52ヶ所も没収されます。光宗は処刑されるのではないかとの噂がありましたが、当初の決定通り、流罪となります。光宗は信濃国に、伊賀の方は、北条氏の故郷とも言うべき、伊豆国北条に配流となるのです(8月29日)。一条実雅は、越前国に流罪となりました(10月10日)。実雅は都に戻ることなく、4年後に亡くなります。幕府の命令で殺害されたとのではとの見解もありますが、殺すのならば、もっと早めに殺しているように私は思います。

12月24日、伊豆国北条から使者がやって来て、伊賀の方が同月12日より病となり、昨日から重体となったという知らせをもたらします。伊賀の方が亡くなったという記述は『吾妻鏡』にはありませんが、おそらく、それほど遠くない日に、伊賀の方は死去したと思われます。北条義時が亡くなった同じ年に、その後妻・伊賀の方も病死したのでした。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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