Yahoo!ニュース

【その後の鎌倉殿の13人】北条政子危篤のなか引っ越し騒動!尼将軍はどのように亡くなったのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄元年(1225)5月29日、北条政子は病に倒れます。北条泰時は、政子の回復を願い、陰陽師に祈祷を催行させますが、政子の体調は悪化する一方でした。

そうした中、北条義時(政子の弟)の一周忌が行われます(6月13日)。泰時(義時の嫡男)が建てた釈迦堂にて法事が執り行われました。釈迦堂があった具体的な場所等は不明ですが、鎌倉の「釈迦堂切り通し」の近辺にあったと推測されます。

釈迦堂の本尊は釈迦如来で、東京都目黒区にある大円寺の本尊(釈迦如来)がそうではないかと言われています(釈迦堂の廃絶後、鎌倉の杉本寺に。その後、大円寺に移されたか)。義時の一周忌の法事には、弟の北条時房をはじめ人々が「群集」(『吾妻鏡』)したとされます。政子は、弟・義時の一周忌を病床で、何を想い、迎えたでしょうか。

6月21日、政子を新築の御所に移すべきか否かが議論されています。医者の行蓮は「戌の日の引っ越しは止めた方が良い」と主張。担当奉行・二階堂行村が陰陽師6人を呼んで聞いてみると、彼らは「戌の日が問題があるなんて、根拠なきこと」と医師・行蓮の説を否定。こうなれば、陰陽師と行蓮を対決させようということになります。

陰陽師・安倍国道は「戌の日の渡御がいけないというのは、どんな書物に載っているのか」と行蓮を問い詰める。すると行蓮は「文章として載っているわけではない。世間の人々がそう言っているだけだ」と反論。安倍国道は「世間の者が申していることには、由緒(謂れ、来歴)というものがあろう。何の由緒か」と行蓮を追い詰めます。

行蓮は答えに窮したのか、黙ってしまい、そのまま席を立ってしまったのでした。二階堂行村がこの話を、上層部に披露したところ、彼らは笑っていたそうです。

その晩、政子の意識がなくなります。「このまま引っ越しをしたら、その途中で、二位尼(政子)は事切れてしまうのではないか」ー泰時と時房がやっと当然のことを口にします。それを受けて、陰陽師6人は再び占いを始めます。そして「新御所への渡御は6月26日が宜しいでしょう」と進言するのです。

泰時は「その日も縁起が悪いのではないか」と心配しますが、陰陽師は「大丈夫です」と主張。26日の渡御が決まります。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

濱田浩一郎の最近の記事