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【その後の鎌倉殿の13人】尼将軍・北条政子の死後、執権・北条泰時を支えた男とは

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄元年(1225)7月11日、北条政子死去。政子が亡くなったことは、翌日、「披露」されました(鎌倉時代後期に編纂された歴史書『吾妻鏡』)。政子の死を受けて、出家する男女が大勢いたようです。政所執事であった二階堂行盛が最初に出家したとのこと。

7月12日の夜、政子は火葬されました。葬儀は、前陰陽権助・安陪親職が沙汰することになります(だが、親職本人は参加せず、弟子の宗大夫有季が代行しました)。政子は、昨年に亡くなった弟・北条義時の邸に日頃住んでいましたが、その邸には北条時房(政子や義時の弟)が入ることになりました。

執権・北条泰時(義時の嫡男)にとって、伯母・政子が死去したことは大きな悲しみだったでしょう。泰時が執権に就任するに際して、骨を折ってくれたのは政子でした。泰時は政子に感謝していたはずです。が、「尼将軍」政子が死去したことは、泰時が政治的に自由に振る舞える契機となったと言えるかもしれません。

泰時を補佐するのは、連署(執権の補佐役。幕府の公文書に執権とともに署判する重職)の時房でした(時房は兄・義時の死の直後に連署となったという説と、政子の死後ではないかという説の2説がありました。現在は後者が有力)。

政子という大きな存在を亡くした鎌倉幕府。泰時は、伯父・時房とどのような政治を行っていくのでしょうか。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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