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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】北条泰時の結婚!泰時はどのような経緯で三浦義村の娘と結ばれたのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

建久5年(1194)2月2日、北条義時の嫡男・金剛は元服し、源頼朝から一字を与えられて「頼時」(後の泰時。ここでは以後、泰時で通す)と名乗ります。その元服の儀の宴の最中、頼朝は、相模国の三浦義澄を側に呼び寄せ「泰時を婿にしてはどうか」と勧めます。

義澄は「孫娘の中から、泰時殿の妻を選びましょう」と答え、選ばれたのが、義澄の子・三浦義村の娘(矢部禅尼)でした。ちなみに、義村の母は、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘。そして、北条義時(父は北条時政)の母もまた伊東祐親の娘。つまり、三浦義村にとって、北条義時は母方の従兄弟だったのです。

元々、縁戚だった北条氏と三浦氏。ここに来て、北条義時の子・泰時と三浦義村の娘が結ばれたら、その縁は更に強くなります。実は、頼朝は、有力武家同士の結婚をよく仲介しています。

北条義時と比企一族の娘(姫の前)が結婚したのは、建久3年(1192)のことですが、それにも頼朝が絡んでいました。結婚前、義時は姫の前に何度も恋文を送っていましたが、振り向いてもらえず。その話を聞きつけた頼朝が、姫の前を呼び出して「決して離縁しないという起請文(誓約書)を義時に書かせるから、義時と結婚するよう」命じたのでした。

頼朝が主導して縁談をまとめたと言えましょう。北条氏と比企氏という有力御家人を婚姻を通して結ばせて、幕府の藩屏にしようとしたのでしょう。北条氏と三浦氏の今回の婚姻もそうした意味合いがあったのではないでしょうか。

泰時は三浦義村の娘を娶ることになったのですが、話があってからすぐに結婚したわけではありません。2人の間には、建仁3年(1203)に長男・時氏が生まれていますので、建仁2年(1202)、泰時20歳の時に結ばれたと思われます。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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