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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】北条泰時が父・北条義時に源頼家批判をした訳

濱田浩一郎歴史家・作家

建仁元年(1201)10月10日、北条泰時は「善政」を為した上で、伊豆から鎌倉に戻ります。伊豆に下向する前、泰時は源頼家(源頼朝の嫡男)の蹴鞠三昧を頼家側近を通して諫めていたのですが、頼家には馬耳東風。泰時が鎌倉に帰ってからでも、御所で蹴鞠を催しています(例えば10月21日、11月2日)。

さて、翌月(12月)3日、佐々木経高が御所にやって来ます(『吾妻鏡』)。「近いうちに、上洛するので」その挨拶に来たのでした。比企能員がこの事を頼家に取次ぎます。その際、側には、経高の子息・佐々木高重もおりました。経高・高重父子は、頼家と対面します。頼家は経高に言いました。

「かつて、没収した所領のうち、一箇所を返そう」と。その後は、昔の思い出話に花が咲いたようです。経高は「往時を忘れることはできない。私の奉公は他人と比べようはない」(それほど、自らの奉公は凄いものなのだ)と、ちょっとした自慢をした上で、独り涙をこぼしたようです。

和田義盛ほか、往時(頼朝挙兵以後の数々の苦難など)を知っている者も、経高の話を聞いて、もらい泣きしたとのこと。

ただ、北条泰時は、頼家が経高に一箇所の所領を返付しようと言ったことに違和感を感じたようで、父の北条義時に「経高の没収されていた領地も、手柄により頂いていたもの。罪を赦すのであれば、一箇所だけでなく、全ての領地を返付するべきでないでしょうか。そうでなければ、いざという時に、敵方となってしまうのではないか。もう少し慎み深い配慮が必要ではないでしょうか」と内々に言っていたようですね(佐々木経高は、淡路国の守護となっていた時に、国務を妨げたということで、後鳥羽院に訴えられ、罰せられて、所領を没収されていたのです)。

頼家の行為を批判したわけですが、泰時も父・義時に自分の意見を言えるまでに「成長」していることが分かります。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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