Yahoo!ニュース

承久の乱 北条泰時の出陣と鎌倉居残り組が行ったこと

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)5月22日の朝、小雨が降る中を、北条泰時は、都に向けて、進発します。『吾妻鏡』によると、この時、泰時に従う者は、僅か18騎。そこには、泰時の嫡男・時氏、泰時の弟・有時と実義、平盛綱、尾藤景綱らの顔がありました。

泰時の父で執権の北条義時は、出立に際して、彼らを呼び、兵具を与えたそうです。北条時房(義時の弟)、足利義氏、三浦義村やその子・泰村も出立します。義時の次男・北条朝時は北陸道の大将軍として出立していきました。

義時や大江広元・三善康信・小山朝政・二階堂行村・宇都宮頼綱・八田知家といった宿老は鎌倉に残ります。彼らは、その日、祈祷をさせたり、人員を派遣したりしたとのこと。

5月22日から同月25日の朝までに、しかるべき関東の武士は殆ど上洛の途につきました。義時は彼らの名を名簿に書き留めることを命じています。鎌倉から大軍が進発したわけですが、一塊で一直線に進軍したわけではありません。

軍勢は東海道・東山道・北陸道の3つに分かれて、上洛することになりました。軍勢は3つ併せて19万騎(『吾妻鏡』)。東海道は10万騎で、北条泰時や時房らが率いていました。東山道は5万騎で、武田信光・結城朝光らがおりました。北陸道は4万騎で、北条朝時・佐々木信実らが率います。

後鳥羽上皇の挙兵の話が鎌倉に伝わったのは、5月19日。2・3日の間に、鎌倉幕府上層部は、対応を協議、方針を決定し、都に向けて、軍勢を進発させたのでした。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

濱田浩一郎の最近の記事