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北条義時を討て!鎌倉に潜入した後鳥羽上皇の使者・押松丸が助命された訳

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)5月27日、押松丸という1人の男が鎌倉から都へ帰されることになりました。彼は一体、何者なのか?『吾妻鏡』には、藤原秀康(承久の乱における後鳥羽上皇方の大将軍)の従者とあります。

その秀康の従者・押松丸は、執権・北条義時を追討せよという後鳥羽上皇の宣旨(命令文書)を持って、鎌倉に潜入していたのです。押松丸は、宣旨を持ち、鎌倉武士たちのもとを廻り、官軍に加勢するよう促す役割を期待されていたのでした。

ところが、事はそう簡単には運びません。彼は、葛西ケ谷(神奈川県鎌倉市)において、幕府方に捕縛されてしまうのです。状況からして、彼は斬られてもおかしくないように思いますが、前述したように、命は助かりました。

『吾妻鏡』は押松丸を「勅使」(天皇の使者)と記述しています。さすがに、天皇の使者を斬ることはできなかったのでしょう。押松丸は、宣旨の返書を持たされて、5月27日に鎌倉を解き放たれました。

彼が都に着いたのは、6月1日のことです。院中の人々からは、関東の情勢を尋ねられる押松丸。「上洛する途中、私は心が痛みました。官軍を討つため、上洛の途次にある関東武士は、幾千万という大軍だったからです」との押松丸の回答に院中の人々は仰天したそうです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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