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承久の乱 官軍が幕府軍を迎え撃った大井戸の戦いとは

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)6月3日、この前日に幕府軍が遠江国の国府に到達したとの知らせがあったため、朝廷では公卿詮議(会議)が行われました。会議の結果、幕軍の西進を防ぐため、軍勢を方々に派遣することになり、3日の早朝、軍勢は出立します。幕軍は、東海道・東山道・北陸道に分かれて進軍していましたが、それに対処するため、官軍もこの時、東山道・北陸道に遣わされたのです。

その2日後(6月5日)、幕軍の東海道軍の大将・北条泰時と時房は、尾張国の一宮に到着。そこで戦についての軍議が開かれます。そこでは、東海道軍を方々に分けて、進軍させることが決められたのです。例えば、鵜沼の渡し(木曽川にあった渡し)には、毛利季光を。池瀬には足利義氏を。板橋には狩野介入道を。

摩免戸(現在の各務原市前渡)には北条泰時、三浦義村が。洲俣には北条時房、安達景盛がというように、幕軍を分散させたのでした。5日夜、東山道軍(5万騎)の武田信光・小笠原長清・小山朝長らは、大井戸の渡し(岐阜県可児市土田)を渡り、官軍に攻撃を仕掛けます。大井戸の渡しには、官軍の将軍・大内惟信の軍勢2千が布陣していました。

だが、惟信は、幕軍の攻撃により「逃亡」(『吾妻鏡』)。同じ官軍の藤原秀康・佐々木広綱・三浦胤義も警護の地を棄て、逃げ去ったと同書にはあります。これが承久の乱における大井戸の戦いです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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