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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】承久の乱 宇治川の戦い 馬が川に流され、水底に沈んだ武士が命拾いした理由

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)6月14日、北条泰時から、官軍を撃破するため、宇治川渡河を命じられた芝田兼義。その兼義の後を佐々木信綱・中山重継・安東忠家ら味方の諸将が追います。諸将は、川の深浅を知る兼義に浅瀬の場所を尋ねますが、兼義は答えず。

そうしている間に、兼義は、馬に鞭を当て、一番乗りせんとして、川を渡り始めます。その様を見た佐々木信綱や春日貞幸、安東忠家といった武将たちも、負けてなるものかと、川を渡ろうとするのです。

「宇治川の先陣争い」と言うと、源頼朝が派遣した軍勢(源義経軍)と木曽義仲軍が戦った「宇治川の戦い」(1184年)が有名です。義経軍の佐々木高綱と梶原景季が先陣争いをして、結果的には、佐々木高綱が先陣をきります。高綱は当初こそ、梶原に遅れをとっていました。が、梶原に馬の腹帯が緩んでいるので締め直すように薦めて、その隙に一番乗りを果たしたとの逸話が残っています。

それから約30数年を経て、再び宇治川で先陣争いが起ころうとしていました。川を渡ろうとする鎌倉幕府軍に対し、官軍は矢を射てきます。その矢に、芝田兼義や春日貞幸が乗る馬が当たり、馬が水中に漂うという最悪の事態に。

馬ばかりか、春日などは、水底に沈み、命の危機に晒されていました。このままでは死んでします。そうした中、春日は心中(諏訪明神)に祈念したとのこと。春日は信濃国の武士でしたので、諏訪大社(長野県諏訪市)に祈りを捧げたのです。

その上で、春日は、腰刀で、甲冑の上帯・小具足を切り、やっとの思いで、浅瀬に浮かび上がります。春日もまた水練の上手でしたので、助かったようです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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