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【鎌倉殿の13人】北条泰時が止めるのも聞かず、自らの身体を切り裂いた佐々木経高の心中

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)6月16日、承久の乱に勝利した北条泰時とその叔父・北条時房は、京都・六波羅の邸に入りました。泰時は、鎌倉幕府の執権・北条義時(泰時の父)の「爪牙耳目」(そうがじぼく。爪や牙、耳・目となって、主人の身をたすける臣下)の如く、国を治める計略をめぐらし「武家の安全」を求めました(鎌倉時代後期の歴史書『吾妻鏡』)。

今回の戦(承久の乱)における残党は数多いが、疑わしくは罰せず、世を平穏にするため、四方の網の三方を、泰時は解いたのでした(厳格な追及はせず)。その対応を世間の人々は、褒め称えたと言われます。

官軍方であった佐々木経高は、院中にて、合戦の策を廻らせていましたが、官軍の敗北後は、鷲尾(京都市東山区)にいるとの風聞がありました。これを聞きつけた泰時は、経高に使者を遣わし「決して、命を捨ててはならん(自害してはならぬ)。関東(鎌倉)に申して宥免(罪を許す)されるように手配しよう」と伝言。

ところが、経高は(これは自害を勧める使者に違いない)と勘違い。このような使者を遣わされたことを恥じた経高は、刀を取り、自らの「肉や手足」を切り裂いてしまったのです。経高は、すぐに絶命せず、輿で六波羅へ運ばれました。

泰時は無惨な経高の姿を見て「なぜ、言うことを聞かず、自害したのか」と悲しみの言葉を漏らします。経高は、最後の力を振り絞るように、両目を見開き、何かを叫ぼうとしましたが、声にならず。暫くして、息を引き取りました。

佐々木経高は、源頼朝の平家方への挙兵(1180年)に、父・秀義と共に従い、幕府の草創に尽力してきた武将です。頼朝挙兵時、敵・堤信遠の邸に向けて、経高は矢を放ちますが、これは「源家の平氏を征する最前の一箭」(源氏が平家を征伐してゆく、一番矢)と評されました(『吾妻鏡』)。

経高は一武人ではありますが、そうした武将の死は、一つの時代の終わりを感じさせるものがあります。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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