【鎌倉殿の13人】莫大な恩賞よりも先陣を重視した鎌倉時代の武士の意地
承久の乱(1221年6月)における宇治川の戦いの先陣は誰か。幕軍の佐々木信綱と芝田兼義は「我こぞが一番乗り」と主張し、一歩も譲りません。
信綱が「一番乗りというのは、敵陣に入る時の事です。乗る馬が川へ入ったのは、確かに芝田の方が少し先でした。しかし、その乗馬に矢が当たり、私が対岸に着いた時には、芝田の姿は見当たりませんでした」と主張すれば、兼義は「佐々木が川を越えることができたのは、私の先導によります。川の浅瀬が分からなければ、どうして先頭に進むことができたでしょう」と反論し、らちが明かず。
そこで、幕軍の総大将・北条泰時の御前に呼び出されたのが、先陣争いを側で見ていた武士・春日貞幸でした。春日は、偽りは申さぬという起請文(誓約書)を書いた上で、次のように言上します。
「先日14日、宇治川を越えた時のことについて申し上げます。岸から川へ入った時は、芝田兼義が先でした。しかし、そこから、佐々木信綱も前進していました。芝田兼義は佐々木信綱の馬の左側におりました。私は、佐々木信綱の右側にいました。その時、佐々木信綱の馬は、芝田・春日の馬よりも、鞭の長さの分だけ先に出ていました。しかし、その後、私は川にのまれてしまい、後の事は分かりません。以下は省略します」と。
泰時は春日の起請文を一読し、周りの者にも意見を尋ねますが、皆、誰が先陣かということに関して、同意見だったようです。「佐々木信綱の馬は、芝田・春日の馬よりも、鞭の長さの分だけ先に出ていました」ということで、泰時らは佐々木が先陣と認定したのです。
そこで、泰時は兼義を招き「佐々木と論争してはいけない。春日貞幸の述べた通りを、鎌倉へ報告しよう。褒美については、望み通りに与えられるであろうから、先陣については、佐々木に譲りなさい」と伝達するのです。
ところが、兼義は「恩賞を多く頂いたとしても、先陣を譲る積もりはありません」と大反論。莫大な恩賞よりも、先陣の名誉の方を上位と考える武士の心意気を兼義の態度から窺うことができます。