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【鎌倉殿の13人】北条義時の妻・伊賀の方が出産の時、居所を変えた驚きの理由

濱田浩一郎歴史家・作家

承久3年(1221)11月3日、鎌倉幕府の執権・北条義時の後妻・伊賀の方が産気付きます。伊賀の方が産気付いたことで、先ず、話し合われたのは「伊賀の方が日頃、住んでいる居所を変えた方が良いのか、否か」ということでした。

現代の視点から見れば「何で?」と思うかもしれませんが、当時、出産は「穢れ」の一種として扱われていました(死も穢れの一種でした)。出血を伴う不浄(穢れ)ということで、隔離された環境で出産する風習が昔はあったのです(明治時代の中頃までは、産小屋という小屋が建てられて、そこで出産する地域もありました。そうした風習は、日本ばかりでなく、タヒチやハワイ・ニューギニア・アメリカの諸民族でも行なわれていたのです)。

さて、伊賀の方の居所を変えるか否か。その事について相談されたのは、陰陽師でした。陰陽師・安倍国道ら5名は、一同で相談した結果「三条局の邸に移るのが良いかと。そこは、現在の家から東に当たり、大倉亭(義時邸)からは西南の方角となります。45日以内に産所に移るのが良いでしょう」ということを報告。その10日後(11月13日)、伊賀の方は、三条局の邸に移ります。そして、その更に10日後(11月23日)の、晴天で風が静かな日。伊賀の方は女児を「平産」(安産)します。

翌月上旬にも更におめでたいことが起こります。義時と伊賀の方との間に産まれた娘(一条実雅の妻)が妊娠したのです(12月3日)。妊娠が分かった時は、大倉亭の廊下において「千度祓」(身の穢れを清めるため、祓えの詞を千度唱える)が行なわれました。これまた、陰陽師らがそれを担当しました。翌年(1221)正月16日にも、娘の安産を祈り、千度祓えが行なわれます。そして2月12日、一条実雅の妻は、無事に娘を産んだのです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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