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【鎌倉殿の13人】執権・北条義時が陰陽師たちの占いに不満を募らせた理由【歴史家解説】

濱田浩一郎歴史家・作家

貞応2年(1223)正月20日。鎌倉幕府の執権・北条義時は、源実親を奉行として、ある事を皆に相談しました。それは「若君」(1219年に都から鎌倉に下向した三寅のこと。後の4代将軍・藤原頼経)の御屋敷の西側の土地がとても狭い。よって、西大路を庭へ取り込んで、築地(塀)を構えようではないかという相談でした。

二階堂行村と三浦義村は、義時の提案に対し「良いのではないか」と賛同します。しかし、それだけで「やろう」と言うことにはならず、義時の邸に陰陽師が招集されました。拡張工事をしても良いか尋ねるためです。ある陰陽師は「工事はダメです」と言い、別の陰陽師は「今、拡張工事をすれば災いがあるでしょう。今年はいけません。来年にお決めになられては」と主張したそうです。陰陽師の間でも、意見の一致を見なかったのです。

義時は、これら陰陽師の見解に不満だったのでしょう。5日後に再び陰陽師を、邸中門の廊下に呼び寄せます。そして「先日20日のお前たちの占いは一致しなかったので、不審に感じている。もう1度、話し合うように」と命じるのです。ところが、陰陽師たちは、またもや自らの見解を主張し、言い争いとなります。またもや意見の一致を見なかったのです。奉行の源実親がこの光景を見ていたはずですが、後でそのことを聞いた義時は、苦虫をかみつぶしたような顔になったことでしょう。

鎌倉の陰陽師らでは埒があかないと見た幕府は、朝廷の陰陽寮の長官に尋ねてみようということになります。翌日(1月26日)、肥田又太郎が義時の使者として、鎌倉を発しました。長官(安倍泰忠)や賀茂在親・在継からの返事は、2月8日にもたらされました。「占いの結果は、半吉だった」というのです。

今でも、おみくじで中吉が出たら、少し残念に感じます。安陪泰忠は「縁起の悪い方角においては、工事は控えるべきでしょう」との意見。賀茂在親らは「縁起の悪い方角でなければ工事に遠慮はいりません」との見解でした。この提案を受けて、同日、幕府では評定が行われました。『吾妻鏡』には同日条に評定の結果は記されていません。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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