【その後の鎌倉殿の13人】北条政子の死も「穢れ」とされ、鶴岡八幡宮の儀式に影響を与えた
嘉禄元年(1225)7月11日、北条政子は、69歳の生涯を閉じます。翌日には、その事が公表されました。政子の死を悲しみ、出家した男女は大勢いたと『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)は記します。
その中でも、一番最初に出家したのは、二階堂行盛だったようです。行盛は、鎌倉幕府の政所執事となっていましたが、政子の死を契機に出家したのでした。しかし、その後も執事を続投していますので、政界から引退したわけではありません。政子は同日、火葬されました。葬儀は、陰陽師が務めたとのこと。
7月23日には、亡き北条義時の邸に、その弟の時房が入りました。義時邸には、それまで、政子(義時姉)が住んでいたのです。主人がいなくなったので、次に時房が入ったのでしょう。翌月15日の鶴岡八幡宮の放生会(供養のため、捕らえた生き物を放してやる儀式)は、延期となりました。政子が亡くなったので、その死の穢れを考慮したのです。出産も穢れと考えられていたことは前に見ましたが、人の死も穢れと考えられていて、一定期間の慎みが必要だったのです。
8月27日、政子の葬儀が行われます。この葬儀は、竹御所(鎌倉幕府2代将軍・源頼家の娘。頼家は政子の子)が実施したとのことです。同日、伊賀朝行と伊賀光重が配所から戻ってきました。
彼らは、伊賀氏の変(1224年。北条義時の後妻・伊賀の方が、親族の伊賀光宗と共謀し、我が子・北条政村を執権、女婿・一条実雅を将軍に擁立しようとした政変)に加担したとされ、流罪となっていましたが、政子の死に伴い、恩赦されたのです。同年10月22日には、政子の「百ヶ日の仏事」が行われていますが、それを沙汰したのは、政子の甥・北条泰時でした。