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【その後の鎌倉殿の13人】3代将軍・実朝を殺害した源頼家の遺児・公暁は生きていたのか?その真相は

濱田浩一郎歴史家・作家

嘉禄2年(1226)5月4日の午後、小雨が降るなか、結城朝広と浅利太郎(甲斐源氏)が幕府に駆けつけてきて、次のようなことを報告しました。先月(4月)の27日、白河関(福島県白河市)の袋辻において「若宮禅師公暁」と名乗る者が、謀反を起こそうとしていました。路上でその者と会ったので、討ち取り、本日、その首を持参致しました。また、捕虜2名を連行して参りました。結城朝広と浅利太郎は、そのように告げたのです。

「公暁」というのは、鎌倉幕府2代将軍を務めた源頼家(頼朝の子)の子であります。しかし、1226年の段階で、公暁がこの世にいるはずはありません。建保7年(1219)1月27日、公暁は、雪が降り積もる鶴岡八幡宮において、3代将軍・源実朝(頼家の弟)を「親(頼家)の仇」として襲撃。その直後に、三浦義村が遣わした武士により、公暁は誅殺されました。

公暁の首は、すぐに北条義時のもとに持参され、義時はその首を見たのです。義時の子・泰時は、その際「未だ公暁の顔を見ていないので、本当に公暁が死んだのか疑いがある」と言ったそうですが。しかし、普通に考えて、公暁はこの時(1219年)、死んだと考えてよいでしょう。

よって、1226年に「我は公暁なり」と名乗ったという人物は、公暁の名を騙っていたと言えます。公暁を騙る者の首は「金洗澤」(鎌倉の七里ガ浜辺り)に運ばれて、晒されました。ちなみに、その者の一味は、50人はいたようです。晒された首謀者の名は「忍寂房」と言い、博打打だったとのこと。そのような博打打ちが、なぜ急に「公暁だ」と言い出したのか、不明ですが、自暴自棄的な行為のようにも思えます。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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