【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時が父・義時が建てた寺院を移動させようとして反対意見を喰らった訳
嘉禄3年(1227)2月19日、北条泰時は、亡き父・北条義時の法事を行いました。その際、泰時は、義時が建てた大倉御堂(鎌倉・覚園寺)を他所に移し、その跡に、北条政子の3回忌に合わせて「新御堂」を建てよとの発案をします。
強引に推進するのではなく「評定衆」にその件を尋ねたのでした。すると、二階堂行村と太田康連は「その精舎(寺院)は、現在のものも、新しく造るものも、どちらも、故人の追善供養のためのものでしょう。それを移動させて、新しいものを建てる。これは、二度手間というもの。現在あるものを引き移すといっても、仏像を既に安置、供養しているのです。それを移して、伽藍を新造することは、控えた方が良いのではないでしょうか」は反対の意を表明します。三浦義村ほか2・3名の者も、これと同じ意見で、反対派に回ります。
次に、陰陽師たちに尋ねてみたところが、彼らの意見は分裂。「控えた方が良いでしょう」という者と「大丈夫です」と主張する者とに分かれたのでした。別の日(2月27日)には、泰時の邸において、またもや、この件が検討されます。中原師員・清原季氏・市時定らは「控えた方が良い」との意見。円全と吉田時方は「控える必要はない」との見解で、ここでも、意見の分裂を見たのでした。
結局、政子3回忌の法事のための御堂は、大倉の大慈寺の傍らに建立されることに決定します(閏3月29日)。大慈寺は、政子の子で幕府3代将軍であった源実朝が建立した寺院でした。