Yahoo!ニュース

【鎌倉殿の13人】有力豪族・上総広常はなぜ頼朝の面前で口喧嘩したのか

濱田浩一郎歴史家・作家

安貞2年(1228)7月24日。鎌倉幕府の4代将軍・藤原頼経が逗留している三浦義村の邸(田村邸)で開催された武士たちによる笠懸(馬に乗りつつ、弓で的を射る)。その時に起こった三浦泰村(三浦義村の次男)と、佐々木重綱(佐々木信綱の嫡男)との口論。この口論は、お互いが危害を加え合う寸前までいきましたが、幕府宿老の仲裁により、血を見ずに済みました。口論の要因は、泰村が笠懸をする前に重綱が声をかけ、それが泰村の気に障ったのか(泰村を茶化しているように聞こえたか)、重綱の判定に(泰村が)不服があったものと推測されます。将軍・頼経が見物している前で起きた武士同士の諍い。このようなことは、実はこれ以前(源頼朝の時代)にもありました。時は、治承5年(1181)6月19日。頼朝は、納涼のため、三浦(神奈川県三浦)に赴いていました。頼朝を迎えるための準備をしたのが、相模国の武士・三浦義澄(義村の父)でした。義澄は、自邸にて、頼朝一行に酒食を振る舞います。酒宴が進むにつれ、皆、酔いが回ってきました。その時、岡崎義実が、頼朝が着ている水干が「欲しい」と言い出します。頼朝は、良かろうということで、すぐに着ていた水干を義実に与えました。義実は嬉しそうにその水干をすぐに着て、皆の前で披露しました。すると、それを見た上総広常が「そのような美服は、この広常が拝領すべきもの。義実のような老人が貰うようなものではない」と嫌味を言います。当然、岡崎義実は激怒。「広常には手柄はあるだろうが、この義実は、頼朝様の旗揚げの最初から参加しているのだ。その手柄とは、比べものにならん」と言い返すのでした。お互い言い合いとなって、この時も、闘争寸前までいきました。が、頼朝は何も仲裁せず。三浦義連が双方(義実と広常)を宥め、あるいは叱って、事なきを得たのです。この一件以降、義連は、頼朝の信任を得たと言うことです。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

濱田浩一郎の最近の記事