【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府は銭を奪った窃盗犯に罪をどのように償わせるのか
寛喜3年(1231)4月21日、鎌倉幕府は、承久の乱(1221年)の後、諸国の郡・郷・庄・保の地頭に新たに任命されたものの「所務」(所領における年貢徴収などの管理とそれに伴う権利・義務のこと)関連の法を定めました。その法は、5ヶ条ありました。ちなみに、承久の乱後に、朝廷側の所領に新たに任命された地頭のことを「新補地頭」と言います。今回の法のことは、京都の六波羅探題にも伝達されました。では、鎌倉幕府が定めた「五ヶ条の率法」とは、どのようなものだったのでしょうか。先ず、洛中の神社の祭礼の日に、武士以外の者(商人・百姓・非人らか)の「武勇」を好むことを停止させること。続いて「強盗・殺害人」のこととして、強盗や殺害犯の「張本」(首謀者)は「断罪」(斬首の刑)にすること。そして、その共犯者は、九州の御家人、在京の輩や守護に託し、鎌倉へ護送させること。また、窃盗犯の犯罪が「銭百文、もしくは二百文程」の罪であったとしても、倍返しで補償させること。重罪の輩においては、その身を捕らえたとしても、共犯ではない親類には弁償させてはならないこと。以上のようなことが定められたのでした。窃盗の額が「百文や二百文」の軽犯罪の場合は、その犯人に倍返しで弁償させることや、重罪人であってもその縁者親族に弁償させる必要はないとしているところが、興味深いところです。