Yahoo!ニュース

【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時はなぜ御成敗式目を制定したのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

鎌倉幕府3代執権・北条泰時は、貞永元年(1232)8月、法令・御成敗式目(貞永式目)を制定します。ではなぜ泰時は、式目を制定したのでしょうか。泰時の式目制定の想いを示す書状が残っています。書状の宛先は、当時、六波羅探題(幕府が京都六波羅に設けた機関)北方として都にいた異母弟の北条重時です(重時は北条義時と姫前との間に生まれた子。泰時は義時と阿波局との間の子でした)。泰時の重時への書状は2通(同年8月8日付、9月11日付)残されています。8月8日付の書状からは、泰時が重時に式目の写しを一部送っていることが分かります。

さて、泰時は日本には既に朝廷が制定した律令(律は刑法、令は行政法など)が存在していると述べ、本来ならばこの律令の法文に従って、裁判を行うべきと書いているのです。が、泰時が言うには、地方においては、律令のことを知っている者(武士)は、千人・万人に1人もいないとのこと。律令が周知されていないという問題点を泰時は指摘しています。よって、盗人・夜討ち(夜襲)という重大犯罪を犯してしまう者が沢山いるとも述べているのです。泰時はこうしたこと(法律の中身を知らない者が、罪の意識なく行ってしまった犯罪)を、鎌倉幕府が律令の法文に照らして裁くことに違和感を持っていました。泰時に言わせると、その犯罪者は「鹿を捕えるための落とし穴がある山に入り、それを知らずに穴に落ちてしまうようなもの」でした。そのようなことがないよう、幕府が成文法を制定し、武士に知らしめたい。そうすれば、凶悪犯罪が減るのではないか。泰時の式目制定の狙いの1つは、そこにあったと言えるでしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

濱田浩一郎の最近の記事