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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】北条泰時はじめとする鎌倉時代の武士は本当に漢字を読めなかったのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時は、御成敗式目(貞永式目。1232年制定)を制定するに際して、その趣旨を述べた書状を、京都にいる異母弟・北条重時に送っていました。その書状の中において、泰時は、真名(漢字)を知らず「仮名(平仮名、片仮名)だけを知る者が世間には多い」として、式目はそのような者(武士)のために作ったのだと述べています(また、漢字で書かれた朝廷が制定した律令に武士・庶民は殆ど通じていないとも書いています)。この泰時の書状文言と『吾妻鏡』(鎌倉幕府が編纂した歴史書。以下、同書と略記することあり)の次のエピソードによって、当時の武士は漢字を解さず、仮名しか知らない人々というイメージで持って語られることがありました。

その同書の逸話とは次のようなものです。時は承久3年(1221)6月15日。承久の乱において、鎌倉幕府軍(大将は泰時)は官軍(後鳥羽上皇方)を打ち破り、都に迫っていました。その時、上皇の院宣(上皇の命令により役人が出す文書)が泰時のもとに届けられたのです。泰時は下馬し「勇士5千余」人の前で「この中に院宣を読める者はいるか」と尋ねます。しかし、その中において、院宣を読み上げたのは、武蔵国の武士・藤田三郎だけでした。これをもって、当時の武士は漢字を解さないと思われてきたのです。

が、裏を返せば、武蔵国(現在の東京・埼玉・神奈川県の一部)の中小武士の中に、当時、院宣を読める者がいたと、この逸話を理解することもできます。当時、漢字を読むことができる武士は多かったとされています。何より「真名を解さない武士たちのために作った」とされる御成敗式目自体が漢字で書かれているのですから。この事も、鎌倉時代の武士が漢字を解していた1つの証拠といえるでしょう。式目を制定したことを朝廷側から非難された時、それをある意味、かわす目的で「多くの武士は漢字が読めませんので」と、幕府側は回答(強弁)しようとしたのでしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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