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【その後の鎌倉殿の13人】執権・北条泰時は所領をめぐって対立する兄弟をどのように裁いたのか?

濱田浩一郎歴史家・作家

鎌倉時代中期に成立した仏教説話集に僧・無住が編んだ『沙石集』がありますが、その「巻第三」には北条泰時にまつわる逸話が収録されています。それは次のようなものでした。泰時が執権の時、九州のある御家人の家で、父親の所領をめぐり、兄弟で相論(訴訟で争うこと)が起こります。兄弟の父親は貧しさから所領を他人に売却してしまうのですが、嫡子(兄)は賢く貧しくはなかったので、その所領を買い戻し、父親に与えるのです。そうした経緯がありながら、どうしたことか、父親は所領を兄ではなく、弟に譲ってしまうのでした。

当然、兄は納得いかず、鎌倉幕府にその件を訴えます。弟は鎌倉に召され、幕府で取り調べが行われます。そしてそこに執権・北条泰時が登場するのです。泰時は事前に得た情報を基に次のように思案します。(兄は長男であり、幕府に奉公している。その申すところも道理がある。一方、弟は父親の所領の譲状を持っている。両者とも言い分があると言えよう。なかなか裁決が難しい案件だ)と。そこで泰時は、明法家(律令法の専門家)に諮問します。すると明法家は「父親が既に弟に所領を譲渡したのは、何か理由があるのでしょう。幕府への奉公は他人にとってのこと、子としての奉公は親への孝行です。弟の申すことに道理がありましょう」と回答したのでした。こうして泰時は弟の方に所領安堵の下文を与えます。

しかし、泰時は兄の方を不憫に思い、闕所(没収された所領。知行者がいない所領)があればそこを与えようと考えていました。更には、自分の家にその兄を庇護し、生活の面倒までみていたのです。名執権と言われた泰時らしい逸話でしょう。裁判においては対立者双方の「道理」がぶつかることになります。そして最終的にはどちらかの「道理」を採用し、裁決する必要があります。採用されなかった側(今回の場合は兄)の悲哀や不満を泰時は思いやり、受け止めて、前述のような処置をしたのでしょう。いわゆる「大岡裁き」を彷彿とさせる泰時の態度を『沙石集』から見てきました。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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