【その後の鎌倉殿の13人】鎌倉幕府は仇討ちをなぜ禁じたのか?復讐の連鎖を避けるための巧妙な仕掛けとは
鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時(1183〜1242)の時代に制定された法令集「御成敗式目」(1232年制定)。式目のなかには「殺害や刃傷の罪科」についての規定があります。第10条において、それが定められているのです。そこには、言い争いや、宴会において酔った勢いで他人を殺害する者は「死罪」か「流罪」に処し、財産を没収するとあります。罪を犯した本人(犯人)以外の父子が無関係な場合は、その者たちは無罪であるとも記しています。
同条には、いわゆる仇討ちについての規定もあり、子や孫、父祖の仇と称して他人を殺害した場合、例えば、犯人の父祖は罪になるのか否かの記述もあるのです。子や孫、父祖の敵を殺害した場合、(犯人の父や祖父がその事を知らなくても)罪に処されると式目は書いています。つまり、仇討ちをした者(犯人)の父祖が仇討ちのことを知らなかったとしても、その父祖も同罪だというのです。なぜか。式目は記します。「父祖の憤りを散ずるために、(仇討ちした者は)宿意を遂げたからだ」と。
父祖の存命中に子孫が仇討ちした場合は、その父祖まで処罰されてしまう連座制となっていたのです。江戸時代においては、仇討ちは「制度化」されていましたので、鎌倉時代も制度化まではならずとも、それに近い形になっていたのではと思われるかもしれませんが、式目は連座制でもって仇討ちを禁じていたのでした。仇討ちした者の同族も罰すると規定することで、抑止力を高めようとしたのでしょう。仇討ちは、復讐の連鎖に繋がる可能性があります。鎌倉幕府はそれを避けようとしたのです。