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【戦国時代】最強の武術はどの流派?戦いの世でずばぬけた強さで他を圧倒した兵法とは

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

いつ戦場へおもむくことになるか分からなかった、戦国時代。武将や兵隊、あるいは大名自身も、日ごろから様々な鍛錬を重ねていました。

そうしたなか、他よりも頭ひとつ抜けようと思えば、武術の達人が編み出した兵法の習得が、きわめて有効な手段であり、数多くの武術が各地で誕生して行きました。

この記事では、その中でも特に名を馳せ、しかもその強さが実戦でも証明された、最強レベルと言える流派について、実際のエピソードなども交え、ご紹介したいと思います。

宝蔵院流(ほうぞういんりゅう)槍術~千変万化の攻めで圧倒~

「突けば槍、薙げばなぎなた、引けば鎌。とにもかくにも外れあらまし 」と謳われた“鎌槍”を使用し、戦いの世において“無敵”とまで呼ばれたのが、この流派です。

槍という武器は、そのリーチの長さや攻撃時のスキの少なさから、実際の戦場で極めて有効な武器であり、剣術3倍段(槍の敵に刀で勝つには、相手の3倍の技量が必要)という言葉もあるほどです。

その、ただでさえ強力な槍に“斬る”“巻き込む”“武器を叩き落す”など、あらゆる攻め手を加えて体系化したのが、この宝蔵院流です。もともとは、とある僧侶が水面に映る三日月を目にして、その着想を得て編み出したといわれます。

実際に活躍した人物としては、織田家に仕えていた可児才蔵(かに・さいぞう)と呼ばれる武将が、この流派を体得して、無類の強さを誇ったといわれます。

ひとたび戦いに出陣すれば、あまりに多くの首級をあげ「この敵は我が討った」という証明が追いつかないため、つねに笹の葉を持ち歩き、首級に差し込んで目印にしたと言われます。

そのエピソードから“笹の才蔵”“槍の才蔵”などの異名も持つ彼は、数々の激戦に出陣して武勲を挙げ続けた、歴戦の猛者と言える存在でした。

戦国時代の後半には、関ケ原の戦いにも東軍の最前線で出陣しており(福島正則の軍に所属)ひとたび開戦すると、宇喜多家の軍に突入して暴れ回りました。しかもそれだけでは飽き足らず、さらには大谷吉継の陣にも突入するなど、縦横無尽に戦場を駆け回ったのです。

そして雑兵のみならず、侍大将など敵の主力も含めた多くの首級を挙げ、戦後は徳川家康から特別に名指しされ、その実力を賞賛されたと伝わります。

日本全国から猛者が集った決戦で、これほどの戦闘力を示した宝蔵院流は、現実に最強レベルであったのだと、それが証明されたとも言えるエピソードでしょう。

薩摩示現流(さつまじげんりゅう)~狂気をもはらんだ一撃必殺~

ときは戦国時代の後半、島津家の家臣である東郷重方(とうごう・しげかた)という武将が編み出した古流剣術で、彼自身が各地でさまざまな武術を体得し続けた果てに、たどり着いた境地を流派にしたと言われます。

その極意は「一の太刀を疑わず/二の太刀いらず」と言われる、先手必勝。とにかく髪の毛1本の差でも、最初の一撃を敵よりも速く喰らわす、一撃必殺を主軸としています。そのために身の守りは二の次と考え、今風の表現でいえば“攻撃力に全振り”して飛び込み、神速の剛剣を降り下ろすのです。

それを為すための鍛錬はすさまじく、木刀を手に、打ちつけ用の木に全力で何百・何千回と叩きつけ続けるもので、熟練者になると“的”から煙が立ち昇ったと言います。

これを日々くり返すことで得る腕力はすさまじく、示現流の上段下ろしを刀で防御した敵が、威力を受けきれずに自らの刀ごと頭部にめり込み、絶命したという伝説も存在。

幕末には達人ぞろいの新選組でさえ「薩摩示現流と戦うときは、最初の一撃はぜったいに受けるな!」と警戒しました。

ちなみに剣道などで竹刀を振るとき「えい!」というかけ声がありますが、示現流はその気合いのあまり「きええぇぇーい!」や「チェストォーー!」といった、すさまじい声とともに、間合いへ飛び込むと言います。

一撃必殺のすさまじさも加わり、もし自身が武士であれば、間違っても敵に回したくない流派と思えてしまいます。

なお、このように言うと「さいしょの一撃さえかわせば、何とかなる」といったイメージにも繋がりますが、実際の示現流には2撃目以降の戦い方もあり、またサムライとしての精神も教える、奥深い流派です。

ひとりの達人が行きついた極意であり、力や根性だけで会得できるような、単純な教えではありません。薩摩示現流は文武の両面で、戦国から幕末に至るまで島津家の強さを、押し上げた流派と言えるでしょう。

強豪がひしめく戦いの世

ここまで最強クラスと呼ぶにふさわしい流派を2つ挙げましたが、有名なところでは「柳生新陰流(やぎゅうしんかげりゅう)」なども、まっ先に言われるひとつでしょう。

この剣術も頭ひとつ抜けて強く、その創始者が徳川家康の前で、素手で相手の武器を奪う“無刀取り”という神技を見せ、すぐさま徳川家に召し抱えられたというエピソードがあります。

現代の感覚からすれば「ほんとうに、そんな事が可能なのか?」と思えてしまいますが・・戦いの世で極められた武術には、今では考えられないレベルの技術が存在したことは、十分に考えられます。

襲い来る敵をバタバタと倒す、目に見えない速度の斬撃・・など、思わずフィクションの話に聞こえてしまいますが、当時の達人ともなれば実際に成し得たことも考えられ、思わずロマンを感じずにはいられません。

歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。鬼滅の刃とドラゴンボールZが大好き■著書『アマゾン川が教えてくれた人生を面白く過ごすための10の人生観』

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