ショートフィルム

【動画】「田原さんが死ぬまでを、撮影していいですか?」 弟子・原一男が師匠を撮りはじめるまで

原一男

映画監督

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 田原さんとの出会いは、ご本人とではなく、まず田原さんの著書だった。

 私がまだ20代の前半、写真を勉強するために上京し、東京生活がやっと慣れ始めた頃。新宿の街、よく行く書店に何気なく立ち寄った。いつものように書棚に目をやって並んだ本の背表紙のひとつのタイトルに目が止まった。それが「青春 この狂気するもの」(三一書房・1969)だった。なぜ、この本のタイトルに惹かれたかは分からない。まさに運命的な力が働いたのだ、と思うしかない。著者の田原総一朗なる人の名前も知らなかった。手にとってパラパラと数ページめくって読んでみよう、と思った。一気に読んだ。無我夢中で読む、という読書体験は人生の中で、そう多くはないのだが、この時が、そうだった。そしてドキュメンタリーなるものの存在を初めて知った。いや、ドキュメンタリー作品を見ていなかったわけではない。だがドキュメンタリーと意識して見たわけではなかったと思う。以後、ドキュメンタリーを意識して見るようになった。とりわけ田原総一朗が東京12チャンネルのディレクターと知ったので彼の作品を見ようと「ドキュメンタリー青春」を積極的に見るようになった。これがメッチャおもしろかった。このことが私の人生を決定的に変えた。

 それから数年たった1970年。運命的な力に導かれて生の田原さん本人に会うことができた。その後田原さんの演出作品に出演したり、田原さんの助監督的な仕事をしたり、そんな経験を経て、自分がドキュメンタリーを作ることになった。

 ドキュメンタリーの作り方を学校できちんと学んだわけではない私にとっては、教科書は田原作品だった。田原さんのドキュメンタリー理論は「被写体である対象を土俵にあげる。相手は逃げられない。そして作り手である田原さんも土俵に上がる。そして両者がっぷり四つに組む」、そんな考え方。この田原理論を応用した私(たち)の作品。『さようならCP』(1972年)『極私的エロス・恋歌1974』(1974年)『ゆきゆきて、神軍』(1987年)『全身小説家』(1994年)、みんな、そうだ。もちろん、自分なりの工夫もあるが基本は田原理論のエッセンスを吸収し発展させたいと願ったもの。

 だから、田原さんは私の恩人である。ある時、恩返しをしなければ、と思った。映像作りを学んだ恩を返すだから、田原さんを映像作品として描くべきだと考えた。田原さんも老いてきた。その老いた体に鞭打ってジャーナリズム界で格闘している様を描く。やがて生き絶える時がくる。クライマックスは田原さんの大往生の場面。ある劇場で開催された田原作品のトークで田原さんと同席した時に「田原さんが大往生する場面を撮らせてくれませんか?」と私は問うた。「原君なら、いいよ」と答えて頂いた。

 田原さんの大往生は、こんなイメージだ。田原さんがベッド(布団)に横たわっている。静かな寝息。枕元に巨大なテレビモニターが設置されている。画面には、かつて田原総一朗が東京12チャンネル時代に製作した数々の作品の映像が流れている。つまり死期が近い田原さんを、田原さんが製作した作品たちが見守っている。それらの映像に見守られながら、やがて田原総一朗は静かに息を引き取る。仏のように穏やかな慈愛に満ちた死に顔だ。映画好きな人ならすぐ分かるだろうと思う。どこかで観たイメージだな、と。そう『2001年宇宙の旅』だ。人類の歴史上、その節目節目で現れる巨大な謎の石板。その石板が人類の運命を導いてきたかのような存在として描かれている。田原総一朗の死を見守るかのようなテレビモニターが謎の石板である。ハッキリ言ってパクリである。上品にいえば、オマージュだ。ラストシーンが先行する形で企画が決まった様に聞こえるだろうが、描くべきは本筋は、もちろんある。それは田原総一朗が終生こだわり続けた「天皇制」の問題だ。戦前の世代である田原さんは、軍国少年だったそうである。その呪詛を晴らすことが田原さんの最後のミッションになるはず、と考えている。天皇制の存在の意義を巡って、当代一級の論客と田原さんが激論を交わして行く。つまり戦後日本が明快にすべき課題を田原さんに挑んでもらいたいのだ。その論争の中から浮かんでくるであろうエッセンスを、田原さんに続く世代への贈り物として欲しいのだ。それは、平成から次の時代へと続く我々に託された遺書となるだろう、と考えている。

クレジット

編集:石崎俊一
構成:島野千尋

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