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東日本大震災 7年目の春を迎えて ~耳が聞こえない加藤さん(73歳)の暮らしは今~

今村彩子映画監督

【加藤 褜男(えなお)さんとの出会い】

 私は東日本大震災が起きた11日後に宮城に入り、被災した聞こえない人たちを7年間取材しています。私も生まれつき耳が聞こえないので、津波の警報が聞こえず、亡くなった方がいるということは他人事ではありませんでした。加藤 えな男さんに初めて会ったのは、2011年8月5日。宮城県聴覚障害者協会の小泉 正壽会長が救援物資を届けに亘理町の仮設住宅を訪れた時でした。津波で家を流された加藤さんは仮設住宅で一人暮らしをしていました。聞こえない私が手話で質問しても答えがずれていたり、違う答えが返ってきたりして戸惑いました。また私自身が加藤さんの身振りのような手話表現を読み取ることができず、加藤さんをよく知っている岡崎 佐枝子さんに通訳してもらいながら取材をしました。
 加藤さん達、高齢ろう者が役場や市役所で罹災届けなどの手続きをする時、職員との意思疎通が難しく、筆談でも普段見慣れない言葉だと意味が分からず、スムーズにできませんでした。市役所や役場に手話通訳の設置をという声を受け、宮城県聴覚障害者協会は県や市に手話通訳の設置を要望しました。
 手話通訳士でもある岡崎佐枝子さんは、2011年7月から亘理町役場に手話通訳のできる職員として派遣されました。勤務日は週1回の水曜日だけです。加藤さん達、ろう者は岡崎さんがいる水曜日に行き、届け出や手続きをするようになりました。

【手話が禁止された時代から手話を言語として認める時代へ】

 現在、日本では、声を発して意思疎通をする音声言語が中心となっています。
 しかし、ろう・難聴・中途失聴者は手話という目で見て分かる言語、筆談や文字電話など視覚から得られる情報を必要としています。
 手話はろう者の言葉であると社会で認識されつつありますが、ろう学校などの教育の現場では、手話の使用を禁じられていた過去があります。昭和8年、鳩山一郎文部大臣が全国のろう学校に口話の指導に力を入れるように指示するなどで、手話は禁止されました。そのため、手話を身につける機会を奪われたろう者が今も大勢います。

 2006年12月に障害者の尊厳と権利を保障する障害者権利条約が国連で採択されました。その第2条に「手話=言語」、第9条に「アクセシビリティ」、第21条に「情報へのアクセス」と記載されています。つまり、手話は言語であること、視覚的な方法で情報を得ること、手話や筆談、要約筆記、UDトークなどのアクセス方法を選択できる社会を目指そうという考え方です。

 私が初めて加藤さんと出会った2011年8月5日は偶然にも、日本の障害者に関わる法整備を進める中で、障害者基本法第三条の3に「言語(手話も含む。)」と明記された日でもあります。そして、2014年1月に日本政府も障害者権利条約の批准手続きを終えました。しかし、ろう者が手話を適齢期に身につけ、学校や職場、地域の集まりなどの日常生活で手話によるコミュニケーションをとり、社会参加を果たすための施策・法整備はまだありません。

 全日本ろうあ連盟は、手話言語法制定のための取り組みを推進しており、自治体でも2013年10月に鳥取県が日本で初めて手話言語条例を制定しました。手話が言語として当たり前に使える情報・アクセシビリティの向上を目指して地方議会で手話言語条例や手話言語法の制定を求める意見書が次々と採択され、2018年2月20日の現在で16県、100市、12町の合計128自治体が手話言語条例を制定しました。

【私の間違った思い込み】

 私も手話が禁止されている時代に口話教育を受けました。母やろう学校の先生が一生懸命、読み書きを教えてくれたお蔭で本を読んだり、文章を書いたりすることができるようになり、また、私の発音に慣れている人は私の話を分かってくれます。しかし、加藤さんは手話も読み書きも十分にできません。仮設住宅の住民たちとのコミュニケーションは大丈夫なのだろうかと気がかりで、取材に行きました。すると、加藤さんは、自分の活動している第一集会所だけでなく、第二、第三集会所にも顔を出すなどして、積極的に住民の中に飛び込んでいきます。手話も日本語もできないからコミュニケーションができないと決めつけていた自分が恥ずかしくなりました。
 また、亘理町役場の臨時職員である木村 けい子さんの「(加藤さんと顔を合わせていくうちに)だんだん分かっていくんだね」という言葉にとても勇気づけられました。

 「手話や文字の読み書きができる=コミュニケーションができる」ではないのだ。手話や筆談、口話ができても部屋に引きこもっていたら、つながる以前に周りの人はろう者がいることに気づくことも出来ません。身振り手振り、そして笑顔で皆と交流する加藤さんだからこそ、住民との間につながりが生まれるのだと気づきました。そして、それはあたたかいものなのだと。
 私は以前、聞こえる人と親しい関係になる前に自分が耳が聞こえないから仲良くなれないと思い込んで付き合いを避けてきました。だから、手話を知らなくてもだんだん顔をあわせていくうちに心の距離は縮められることに嬉しい気持ちになりました。
 昔と比べて聞こえない人に対する差別や偏見は少なくなったけれど、心のバリアはまだあります。聞こえる人は、自分は手話はできないから話せないという思い込みが、ろう・難聴・中途失聴者は、しょせん聞こえる人は理解してくれないだろうという思い込みがあり、それらがバリアを作っています。加藤さんと住民のつながりは、聞こえない人、聞こえる人の双方に、自分の命を守り、安心して暮らすために欠かせない日頃からの近所の人づきあいの大切さを伝えてくれます。このような人の体温を感じられる人づきあいは、災害による被害もきっと軽減することができると信じています。

【加藤さんの今】

 加藤さんは2015年6月に仮設住宅から災害公営住宅に引っ越しました。引っ越した当時は、仮設住宅のような人づきあいがなくなったからか、「誰かに監視されている」と訴え、精神的に不安定な状況にいました。2017年4月に災害公営住宅の住民同士の交流を目的として「たんぽぽの会」が作られると加藤さんは、毎日参加するようになりました。
 今年の2月に取材で加藤さんに会いに行った時、まだ精神的に不安定な状況は続いているようでしたが、前よりは笑顔が見られました。「たんぽぽの会」の住民は加藤さんを受け入れていますが、お互いに身振り手振りのコミュニケーションで伝えたいことが限られてしまっている状況です。
 今年の1月、仙台市の郡 和子市長が全国手話言語市区長会に入会しました。宮城県では石巻市、塩竈市、気仙沼市に続く4番目の市の入会となります。このように地方自治体が手話を広めていこうという機運が高まりつつあります。住民が簡単な手話を覚えるなどして身近なところでも手話が当たり前のように使われる世の中になれば、加藤さんも安心して楽しく生活することができるのではないでしょうか。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人の動画企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】
※ この記事はYahoo!ニュース 個人で2018年3月10日に配信されたものです。

映画監督

映画監督/Studio AYA代表/名古屋出身/主な映画「珈琲とエンピツ」(2011年)、東日本大震災で被災した聞こえない人を取材した「架け橋 きこえなかった3.11」(2013年)、自転車ロードムービー「Start Line」 (2016年)、ろう・難聴LGBTを取材した教材DVD「11歳の君へ 〜いろんなカタチの好き〜」(2018年)文科省選定作品 がある。

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