【神戸市灘区】幻の幕末の道、徳川道の平坦コースを歩いてみた
阪神電車の石屋川駅から歩いてすぐの場所に「徳川道起点」と書かれた案内板があります。そもそも徳川道ってなに?という疑問から解説を読んでいくと歴史好きには引き込まれる内容が書かれています。そこで今回は歩きやすい平坦な道だけを当時の街道に沿って歩いてみました。
徳川道は幕末に外国人との衝突回避のために作られた道
徳川道とは、簡単に言えば幕末期に開港にともなって入国していた外国人と武士らとの衝突を避けるために作られた道です。外国人居留地を迂回して六甲山を通るルートで作られました。また徳川道が作られることになった背景にあるひとつが生麦事件とも言われています。石屋川の起点から六甲山を通り明石大蔵谷までの約34キロの道です。
昭和にまとめられた徳川道の詳細な解説本を手掛かりに今回当時の道を少しだけ歩いてみました。当時の西国街道が石屋川とぶつかる場所が起点となっています。
それでは起点から歩き始めます。石屋川沿いをまっすく北上するルートです。しばらくはこの石屋川に沿って進みます。
国道2号線にかかる石屋川橋を渡って石屋川公園に入りそのまま進みます。右手には御影公会堂が見えます。
この辺りは公園などがあって周りに建物があまりないために当時の風景を想像しやすい場所かなと感じます。もちろん当時は道は整備されてないですし、もっと険しい道だったに違いありませんがそれでも正面に六甲山が見え周りに緑だけの風景は当時と近かったはず。当時を想像するのに楽しい場所でした。
石屋川にかかる小さな平野橋がある箇所を左折します。ここで石屋川沿いからは離れていきます。この周辺は当時は平野村だった場所とのこと。
ここまで長く連なってきている石屋川公園に灘区役所が設置した徳川道の解説板があります。
石屋川公園を左折するとまっすぐな道を進みます。この辺りは住宅街が続きます。
神戸高羽郵便局の前を通ります。この先の通りが当時の村の境界だった場所だったとのこと。
大きな通りに出て徳川道だった道の少し北に上がったところに八幡交番がありその横には道標があります。この道標は元々は徳川道の辻にあったものだそうです。道標には「右 住吉 西宮、左 有馬 三田」と彫られています。徳川道を歩く際には見ておきたい遺産です。
八幡神社の鳥居がある通り進みます。この辺りまでは、現在の道で当時のルートをたどることが出来ましたが、この先からは当時のルートでは進み方がやや困難になってきます。
八幡神社の横の道を北上するところまでは現在の道を進めましたが、この先は当時道だった場所が住宅地になっている箇所が多くなります。今回の調査では当時の道をそのまま進むことができたのはここまででした。この後は、徳川道の六甲山の登り口になる護国神社までたどります。
八幡神社から護国神社までの徳川道は、現在の住宅地を通るコースが多々あるため、ここでは護国神社までのルートは割愛します。徳川道はこの交番横にある道につながっています。
ここから勾配も急になりいよいよ六甲山に登っていきます。今回の徳川道歩きはここまでとしました。
交番横にも徳川道の案内板が立てられていました。ここに書かれているようにここから山路となってきます。これ以上の道を上がるには山登りの準備も必要です。
徳川道が出来てから起こった神戸事件の謎
徳川道ができたのが慶応3年(1867年)ですが、その翌年の慶応4年(1868年)には三宮神社前でフランス人水兵らを負傷させてしまうという神戸事件が起こってしまいます。外国人との衝突回避のために徳川道ができたのにも関わらず起こってしまったこの事件、なぜ武士らは徳川道を通らなかったのかについては諸説あるようです。
神戸を舞台にした歴史の道をたどるだけで当時のことを様々な角度から想定したり思い描くことができます。このように歴史を紐解きながらのウォーキングも楽しいです。ぜひお勧めします。
徳川道起点
阪神電車 石屋川駅下車