ショートフィルム

「僕は母と妹を殺した」 70年間語ることができなかった記憶を今、語る理由。

伊藤詩織

ドキュメンタリー映像作家・ジャーナリスト

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「妹と母を殺めたんです。」優しい表情と丁寧な話し口調からは想像のできない過去が村上敏明さん(85)にはある。

自分の最も身近で愛する存在を殺さなくてはいけなかった理由。彼をそうさせたのは何だったのだろう。「同じ過ちが2度と繰り返されないように」70年間、心の中に閉じ込めていた、家族にも打ち明けたことの無い戦争の記憶を語り始めた。

1938年、村上さんが4歳のころ、両親と弟の4人で満州に移住した。より良い生活ができると父が選んだ新天地だった。

1945年8月9日。ソ連が日ソ中立条約を破り、満州への侵攻を始める。
それまでは穏やかだった生活も大きく変わった。村上さんは母親、弟、満州で生まれ1歳になったばかりの妹・芙美子さんと暮らしていた。父親はシベリアに抑留されていた。多く男性達は兵隊として駆り出されていた。

「当時小学校4年、5年生だったんですけど。きみはソ連の飛行機が飛んでくるかもしれないから、我々に伝えて欲しいと言われ、ずっと北の空を見つめていた。どれが飛行機か星かわからないぐらいキラキラした美しい空だったことを覚えています。」

1945年8月15日、日本は降伏した。

ソ連兵が、満州に侵攻し発砲音が聞こえてくる日常へと変わった。女性が襲われる、強奪されるなど、安心して暮らせる街ではなかった。

妹の芙美子さんは満州によく咲いていた中国原産の芙蓉の花から、「芙蓉のように美しく育つように」と村上さんの父親がシベリアにいく前に名付けた。小さい芙美子さんを村上さんはよくおんぶして遊んだという。

1946年3月に入ってソ連軍が満州から撤退を始めると、中国の国民党軍と共産党軍の内戦が本格化するようになる。今度はその戦火に巻き込まれた。

「妹をおぶって家の前で遊んでいたとき、目の前に砲弾が落ちてきたこともありました。隣に立っていた女性の目に当たって、女性は失明してしまいました。」

そんなことが日常的になっていた頃、満州引き揚げが決まった。

引き揚げ直前の7月、夏のことだった。日本人会の男性5、6人が家を訪れた。男性達に囲まれ母が話していた様子を写真のように今でも覚えているという。村上さんは母に呼ばれ、男性たちに囲まれながら、真ん中に座り、妹を抱く母の隣で、手渡された液体を自身の手でスプーンを持って妹の口に運んだという。

「それまで何ともなかった芙美子の瞳が『お兄ちゃん、何すんの?』と言っているかのように大きく開いて、そのまま死んでいきました。」

そんな妹の最後の表情を村上さんは忘れることができない。

「引き揚げの窓口になっていた日本人会が、病弱な子どもたちをこのようにすることはどのように決めたのか、当時の記録を探しても見つからず、このようなことは他にもケースがあったと思います。」

その後、村上さんの母は娘を失ったショックからか、衰弱し、立つことすらままならなくなっていた。
数日間、列車に揺られ、ようやく引き揚げをする日本人が集められた葫蘆島へたどり着くと、母親は病院に収容された。

弟とともに看病を数日間続けた後に、医者からいつもと違う薬を手渡された。何も考えずにそれを母の口に流し込むと、すぐに泡を吹き亡くなった。

「妹は1歳だから一言も語ることができませんでした。母も寝たきりのまま、一言も話しませんでした。母と妹が語ったであろう遺言の意味を含め、日本という国が過ちを2度と繰り返さないことへの思いを聞いていただきたいと思います。」

村上さんは今日もどこかで語り続けている。

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