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【京都市下京区】正面通は何に対して正面なん? 秀吉の極楽浄土の道を阻止したのはやっぱりあの人だった。

伊波多玄以

地域ニュースサイト号外NETライター(京都市)

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 五条通りと七条通りの間に正面通というのがあります。西側は、千本通りの手前から始まります。進んでいくと途中で、西本願寺、東本願寺、枳殻邸で分断され、さらに行くと大和大路通まで。その先は豊国神社の鳥居にぶつかります。

高瀬川にかかる正面橋
高瀬川にかかる正面橋

 「そうか、正面通は豊国神社への参道やったんや」、でもちょっと待てよ。今の豊国神社は明治の再建なので、この辺り一帯は、大仏と大仏殿だったはず。昔の豊国社は阿弥ケ峯の麓にあったので、そうなんです正面通とはかつて京にあった大仏さんへの通りだったんですね。

大仏前交番
大仏前交番

 さらに歴史をさかのぼると、平安後期、後白河上皇は、当時、権勢を誇った平清盛に命じて、法住寺殿(ほうじゅうじどの)と呼ばれる院御所を創建させました。北は七条通、南は泉湧寺通り、西は大和大路通り、東は東山山麓付近までの広大な地域をしめていたというから驚きです。その院御所の中心に創建されたのが三十三間堂でした。

三十三間堂
三十三間堂

 諸説ありますが、桃山時代、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良の大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営します。本堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築きました。今も、その遺構として南大門・太閤塀(ともに重要文化財)が残されています。

三十三間堂の南門にある太閤塀
三十三間堂の南門にある太閤塀

 秀吉は、自らの神格化のために、三十三間堂東隣の阿弥ケ峯に壮麗な墓所を造営させました。その豊国廟から真西に向かって、ふもとに豊国社、その西に、淀君との最初の子で早世した鶴松を祀った祥雲禅寺、その西に、方広寺大仏殿、さらに真西に向かったところに、本願寺に土地を与えて、西向きに阿弥陀堂を建てさせ、一直線上に配置しました。つまり、正面通は、神になった秀吉が二十五菩薩とともに来迎すると言われる阿弥陀如来とともに極楽浄土へ向かう道だったのです。

阿弥陀が峯へ続く道
阿弥陀が峯へ続く道

 秀吉が没した後に、その野望を阻止したのは、やはり徳川家康でした。家康は、豊国廟、豊国社を壊滅させ、祥雲禅寺を、秀吉が壊滅した根来寺由来の智積院に与え、方広寺は 妙法院の管理としました。さらに、方広寺と本願寺の間には、かつて秀吉が隠居させた教如に東本願寺を創建させ、本願寺を分裂し、東向きに阿弥陀堂を建てさせました。さらにその間に、東本願寺に土地を与え、渉成苑を建てさせたのです。

西本願寺阿弥陀堂
西本願寺阿弥陀堂

 秀吉が神となって西方浄土へ赴く、また衆生が秀吉を参拝するとされた、豊国廟から本願寺の直線を、ことごとく分断したのはやはり家康だったんですね。しかし、江戸時代中期頃になってから、方広寺から西本願寺へ向かうこの道が「正面通」と称されるようになりました。これもまた京都人気質だと言われています。

 2022年の大河ドラマは鎌倉殿の13人だそうです。京都には鎌倉時代の遺構は少ないですが、西田敏行さん演じる後白河法皇ゆかりの三十三間堂近辺にも訪れてみてください。

蓮華王院 三十三間堂 京都市東山区三十三間堂廻り657

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