【京都市中京区】天下所司代と呼ばれたお坊さん。秀吉の懐刀、京の土台を造りあげた豪傑がいた。玄以とは?
「二条城×ネイキッド 二条城夏祭り2021」や夏の特別事業「大広間二の間」への特別入室なども緊急事態宣言の最中、2021年8月23日から中止となっています。せっかくの機会でしたのに残念です。早く新型コロナウイルスが収束することを願うばかりです。
ところで、今の二条城は徳川の時代の城です。二条城というと、それ以前にもいくつかの城がありました。その一つが、「二条御新造」と呼ばれた、織田信長が五摂家の一つ、二条家の屋敷を召し上げ、天正八年に誠仁親王に譲渡した下御所でした。二条殿とも二条城とも呼ばれました。今は、両替町御池を上がった京都国際マンガミュージアムの裏側に石碑が残るのみとなっています。
この城は、本能寺の変の際、当時直ぐ西側にあった妙覚寺から移動した信長の嫡男・信忠が自刃したところでもあります。最近の研究では、信忠は当時すでに、信長の後継者として認知されていたと言います。そして実は、その燃え盛る炎の中から、信忠の嫡男・三法師を担いで京の街を駆け抜けた豪傑がいたんです。その事実が後に、清須会議で秀吉を織田家中の中で優位な立場に導くこととなります。
この人物こそ、当時41歳だったという、後になって、秀吉の時代に五奉行の一人、天下所司代とも言われた前田孫十郎基勝、後の民部卿法印・前田玄以です。元は尾張小松原寺の僧侶でしたが、後に比叡山延暦寺に入って修行したと伝えられています。
玄以は、清須会議でもたらした論功行賞として、秀吉の懐刀の京都所司代に任命され、主に朝廷との橋渡しや京の大改造を任されます。妙顕寺城の建設から始まり、仙洞御所、聚楽第の建設、天正の町割り、御土居の建設、京の大仏の建設を、木食応其や京の町衆とともに次々と成し遂げていきます。後陽成天皇の聚楽第行幸を取り仕切ったのも玄以でした。
玄以が居住して、京都所司代としての政務に勤しんだと言われる妙顕寺城の跡地にも石碑が残されているのみとなっています。もっと注目されてもいい人物なんですけどね。あまりドラマ等でも取り上げられたことはないですね。
二条殿跡 京都市中京区二条殿町 妙顕寺城跡碑 京都市中京区古城町376
【関連記事】
【京都市下京区】2022年大河ドラマ 鎌倉殿の13人で西田敏行さんが演じる後白河法皇ゆかりの三十三間堂近辺を紹介します。(号外NET)
【京都市上京区】秀吉の京都大改造に迫る。京の都を守る防波堤。街を囲んだ寺院と御土居とは?(号外NET)
【京都市東山区】京にも奈良の大仏より大きな大仏があったんだって?京の冬の旅 方広寺(号外NET)