【京都市上京区】秀吉の大イベントは京の世論調査だったのか? たった1日で打ち切りとなったのはなぜ?
2021年10月中に衆議院の総選挙も行われるということが決定して、各陣営や候補者さんたちも世論を気にされているようですね。さて、今から430年以上も前、安土桃山時代にも随分と世論の動向を気にしたと言われる天下人がいました。そう豊臣秀吉です。
京の都へ上洛し、天下をほぼ手中に収めた豊臣秀吉は、九州平定と聚楽第の竣工を祝って、天正15年(1587年)10月1日、前田玄以に命じ、北野天満宮にて大茶会「北野大茶湯(きたのだいさのえ)」を催しました。「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す との布令を発したため、洛中、洛外より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず一千人の人出で賑わいを呈した」(上七軒歌舞会記より)と伝わります。
上洛して京の大改造にも乗り出した秀吉に対する京都人の感情を知るための試金石でもあったといわれています。ところが、当初10日間の予定だったこの大茶会がなぜか、1 日で打ち切りとなりました。
「肥後国人一揆が発生したという知らせが入ったから」「何十万もの大軍を動かせるようになっていた秀吉が1000人程度しか集まらなかったのでへそを曲げた」「秀吉の野点ブースよりも千利休や今井宗久のブースの方が人気があったので秀吉がへそを曲げた」など諸説ありますが、今でも謎となっています。個人的には、戦ではないので、茶会で1000人はすごいと思います。秀吉も満足していたと考えるのですが。
北野天満宮の参道ともなっている上七軒は、京都五花街のなかでも、最も古く格式のある花街と言われています。室町時代、北野社殿(今の北野天満宮)が一部焼失し、社殿の造営が行われました。その際、社殿御修築の残材を用いて、東門前の松原に七軒の茶店を建て、参詣諸人の休憩所としたので、七軒茶屋と称したのが上七軒の由来です。
北野大茶会の際、この七軒茶屋を、秀吉の休憩所に充て、名物の御手洗団子を献じたところ、秀吉はいたく賞味に預り、その褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、我国に於けるお茶屋の始まりであると伝承されています。 上七軒の花街が、五つ団子の紋章を用いるのもここに由来します。
北野天満宮には、茶会の遺跡として、秀吉が茶の水としたという「太閤井戸」も残されています。行かれた際には、ぜひ上七軒を通り、北野大茶会の遺構も目にして、歴史ロマンを感じてみてください。
北野天満宮 京都市上京区馬喰町