【京都市左京区】大原女の里は芸能の源流 仏教音楽の聖地 「呂律が回らない」の語源はここにありました!
大原の里は、古くは「おはら」と読まれ、小原とも表記されました。かつては 山城国愛宕(おたぎ)郡に属し、南隣の八瀬とセットで「八瀬大原」とも称されました。平安京と若狭湾を結ぶ若狭街道の中継地点として栄え、鯖街道とも呼び、若狭で塩絞めにした鯖が一昼夜かけて京の都に運ばれた時には、ちょうど良い塩加減になっていたといわ れています。
2022年4月11日、遅咲きの桜を求めてその大原の地を訪れました。大原の里は、延暦寺に近かったことから、勝林院・来迎院・三千院・寂光院など多くの天台宗系寺院が建立されました。戦争・政争による京都からの脱出のルートとしても用いられ、惟喬(これたか)親王や建礼門院徳子をはじめ、 藤原顕信・西行・鴨長明などの隠遁の地としても知られています。
中世以後は薪炭の生産地として知られ、「黒木買わんせ 黒木召せ 黒木買わしゃんせ」と歌いながら、頭に薪や炭を載せ、髪を束ね、黒の小袖に白の下着、紅白の細い帯、白の手甲、脛 巾(はばき)に草鞋(わらじ)といった独自のいでたちをした大原女(おはらめ)が京都まで薪炭を売り歩き、白川女・桂女と並び称されました。後には柴漬や茶、麦粉などの特産でも知られるようになります。
国道367号線の寂光院と三千院の分岐点から参道の登り口に、魚山の石碑があります。三千院の 周辺一帯を魚山とも称します。魚山とは、もともと中国山東省の山。三国志の三国の一、魏の国の王・曹植がこの山で妙なる音楽を聴き、梵唄(ぼんばい)を大成したといわれています。ぼんばいとは声明のこと。声明は、お経に独特の節をつけて合唱する仏教音楽です。
遣唐使として唐に渡った比叡山の僧・円仁(後に三代目天台座主ともなる高僧)がこの声明を日本に持ちかえり、大原の里で盛んに修行が行われるようになったことに由来しています。この音律がやがて、浄瑠璃、民謡、歌舞伎などに引き継がれていくことになります。
大原三千院を挟んで涼やかに流れる二つの川は呂川(ろせん)と律川(りっせん)といいます。 下から上がっていくと、三千院の手前が「呂川」、三千院を右に見ながら、さらに進み右に「大原陵」「大原法華堂」を通り過ぎたところに「律川」があります。 朱色の橋越し真正面には、勝林院が見えます。
舌が滑らかに動かないために話しにくく、言葉が不明瞭になることを「呂律が回らない」と言いますよね。呂と律は、音階、あるいはわかりやすく言うと曲調のことで、同じお経でも、西洋音楽に例えると長調に近い呂調で唱えるか、それとも短調に近い律調で節を回すかで、まったく異なる音楽となるんです。声明の音階を上手に取れない修行者の様子を 「呂律が回らない」といったんですね。
この日は頑張って来迎院のさらに奥、律川の上流にある滝、音無の滝まで足を延ばしました。うわっ、プチ登山やし! 。平安時代後期の天台宗の僧で、来迎院を創建し、大原声明を完成させた融通念仏宗の開祖でもある聖応大師が滝音をも凌ぐ声明でその音を止めたという伝説があり、滝の名もこれに由来しています。やっとの思いで訪れた先には幽玄の世界が広がっていました。
大原へお越しの際はぜひ足を延ばしてみてください、頑張った先には良いことがあるんだと感じられるかも!
音無の滝 京都市左京区大原勝林院町