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【京都府長岡京市】住民が守る瓦窯の史跡や現在も生きる農業用水、城跡、古刹周辺は歴史ロマンがいっぱい!

伊波多玄以

地域ニュースサイト号外NETライター(長岡京市・向日市)

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 群馬県伊勢崎で6月としては史上初の気温40度を記録しましたね! そんな猛暑の中、2022年6月25日、乙訓寺とその周辺の長岡京市今里地域を散策しました。

 飛鳥時代に聖徳太子によって建立されたとされる長岡京市の乙訓寺は、4月下旬から5月上旬にかけて、境内に咲き誇る2000株を越える牡丹の寺としても有名です。大慈山乙訓寺のある今里地域には、二千年前の弥生時代から多くの人々が住み着いていました。継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築いたといわれるこの景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させました。この寺が乙訓寺だと伝承されています。

 延暦三年(784)、桓武天皇が長岡京に遷都したとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築します。この当時の境域は、難波京の大安殿に匹敵する規模であったと言います。翌年、藤原式家の種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王をこの地に幽閉しました。早良親王は、無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に憤死したと伝わります。境内にはその供養塔が建てられています。

 嵯峨天皇は、弘仁二年(811)十一月九日太政官符をもって弘法大師空海を別当にします。現在の乙訓寺の本尊八幡弘法合体大師像はこの時に彫られたものと伝わります。弘仁三年(812年)十月には、乙訓寺を訪れた天台宗祖の最澄と、密教の法論を交わし灌頂の儀の契りを結びました。

 近くの閑静な住宅街には、昭和41年(1966年)に行われた、長岡京跡の調査の際に発見された瓦窯が、今里地域の住民の尽力で今も保存されています。守り続けている岡田光義さんによると、「奈良時代に乙訓寺の瓦を焼くために造られた窯で、2基の瓦窯は、いずれもロストル式平窯で、川の緩斜面を利用し造られています。長岡京市指定史跡にもなっている貴重な窯跡です」とのことです。

 今もなお静かな田園風景と閑静な住宅街が混在する今里地域は、室町時代から幕府の御被官衆として西岡地方の国人・能勢氏が今里城を構えて支配していました。戦国期には能勢頼広が足利15代将軍に就いた義昭に仕えるも、その義昭が織田信長と決別すると、義昭とともに二条城に籠城し滅亡し、今里城も廃城になったと伝わっています。今でも能勢氏姓の人が多い地域です。

 近くの田んぼには、今井用水が流れています。今井用水は、長岡京市の住宅地を南に流れ、今里の農地に至り、再び住宅地を流れ、小畑川に注ぎ込む農業用水です。平安時代、今里村は水の便が悪く、農民らは大変困窮していました。九左衛門(くざえもん)という村人が、湧き水が豊富な上里村に井戸を掘り、今里村までの用水路を完成させました。しかし、当時、他の村から水を引くことは「ご法度」とされていた為、以後、上里村と井ノ村の農民による激しい水争いが繰り返されました。争いが収まらないため、幕府によって、九左衛門と妻子が処刑されるという悲しい伝承も残っています。

 近年では、乙訓寺境内の学術調査も取り組まれており、あらためて乙訓寺の伽藍のあった今里地域を研究しようとする気運が高まっています。

大慈山 浄妙院 乙訓寺(真言宗 豊山派)(外部リンク) 京都府長岡京市今里3−14−7

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