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「銃で殴られた母の姿は忘れられない」日本軍に抑留されたオランダ人女性が憎しみを手放す時 #戦争の記憶

小西晴子ディレクター/プロデューサー

オランダには、いまも日本人から受けた心の傷みに苦しむ人たちがいる。80年前の1942年、植民地支配していたインドネシアで日本軍の侵攻にあい、抑留所に収容された7万人あまりの女性と子供たちだ。食料や薬の不足、そして日本兵による暴力。そんなトラウマを持つ存命者の1人が、ティネケ・ファンデル・ウーデ・ズルヴァー(96)だ。インドネシアに侵攻した元日本兵の父を持つ私は、オランダに彼女を訪ねた。ティネケが語った憎しみを癒やすためにできることとは(敬称略)。

【元日本兵の父が語ったインドネシアでの戦争】
私の父、小西繁男がインドネシアでの戦争体験を初めて語り始めたのは、80歳になってからだ。
父が軍隊に召集されたのは、大学生の時だった。自由な学生生活を満喫していたが、1年半の厳しい軍事教練と精神教育を終えると、「我々が戦場で死んでも、忠孝という精神に安心立命を見出すことのできる日本人は、実に幸いにして有り難し」と軍隊日誌に書く兵士へと変わっていた。そして送られたのが、インドネシアだった。

父は、インドネシアの青年たちを日本軍の補助部隊として教育した。1945年の日本の敗戦後、オランダはインドネシアを再び植民地にしようと侵攻。父の教えた青年たちの独立義勇軍が母体となり、オランダからの独立をかけた闘いに突入する。インドネシアが独立を果たしたのは、4年半後の49年12月のことだ。

「自分が教えたインドネシアの青年たちが、オランダと戦って勝って、それでインドネシアは独立したんだ。日本はインドネシアの独立に貢献した。オランダはそれが悔しくてしょうがないんだよ」。父はこう話した。では日本の占領下での市民生活はどうだったかと聞くと、父の答えは「知らない」の一言だけ。現地のオランダ人やインドネシア人がどのような
体験していたかを、想像したことはなかったようだ。

【日本軍抑留所でのオランダ人の体験】
私は、日本兵の側からではなく、インドネシアにいた人たちがどんな体験をして、人生にどのような影響を受けているかを知りたかった。2020年春、オランダに住む元抑留者にコンタクトを取り始めた。

抑留所の中でも「最悪の環境」と言われていたチデン抑留所にいた人たちは、チデン抑留所協会(Tjidengkamp Foundation)を組織して、「同窓会」を開いてはそれぞれの体験を語りあっていた。協会にメールで連絡すると、会長から「リモートで直接話がしたい」との返信があった。オンラインで会長に会った私は、幼いころに元日本兵の父親に理由なく殴られた経験を話し、抑留所での飢餓と暴力の体験が抑留体験者の人生にどう影響を与えているのかを取材し、映画にしたいと依頼した。会長の答えは「今でも日本人を強く憎んでいる人がいるので、話してくれそうな人を探すため少し待ってほしい」というものだった。

2週間後、会長から候補者のメールアドレスが記されたメールが来た。候補者にメールを送ったところ、返事をくれた1人がティネケだった。そこにはこう書かれていた。
「お手紙に、驚きました。戦争の話は、ずっとずっと昔のことなのですが、その時の記憶は今でも鮮明です。私が戦争の話をするのは、戦争が二度と起こらないようにという、私の希望なのです。私は、若者たちに、戦争が起こらないように、そして紛争を解決するための何らかの手がかりになれればと願っているのです。だから、直接あなたと話すことを望んでいます」

2020年夏、私は、オランダに向かった。
ティネケは1926年、不況で職を失い軍人になっていた父の赴任先インドネシアで生まれた。少女時代はおてんばで、野原を駆け回り、木登りをする幸せな日々を過ごしていたという。ところが42 年 1 月、日本軍の侵攻で人生が激変する。
ティネケは母と2人の姉とともに、バタビア(現ジャカルタ)市内のチデン抑留所に収容された。父は逮捕され、捕虜として飛行場建設の労働をさせられていた。

「いつも食べ物が不足していました。命令通りの敬礼や点呼を怠ると殴られ、炎天下に何時間も立たされました。同じ年頃で皮膚病の手術を受けた少女は、点呼のために街路にマットレスごと運ばれました。まだ外には出られないと反対した女医は、銃床で殴られ、あごの骨を折りました。抑留所の柵越しにインドネシア人と衣服と食料を交換していた人たちは、見つかって全員坊主に頭を刈られました。不思議なのは、小さな子供が弱って死んだ時、最初はみんな怒っていたのですが、周りで次々に人が死んでいく中で、それがあたりまえになっていくんです。次は自分の番かと……。何事も迅速に動けとの命令でした。母は食事中ですぐに行動できなかったため、武器で殴られました。その光景は今でも忘れられません」

彼女の目には涙がたまっていた。忘れようとしていた憎しみが、吹き出してくる。ただ、3時間半にわたって体験を率直に話しているうちに、ティネケの表情は柔らかくなっていった。日本人である私に思いを直接ぶつけることで、感情を少しでも放つことができたのかもしれない。抑留所から出した父への手紙、大切な宝物である友人が書いた絵やスカーフを、私に見せてくれた。

【憎しみを越えるために、できること】
2021年10月、ティネケはチデン抑留所協会の集まりで、私と会った体験を話すことにした。私たちが会ってから、1年半がたっていた。オランダには、同じホテルに日本人がいると知るだけでホテルを変えたり、日本人観光客の声が聞こえただけでその場を立ち去ったりするなど、日本人になお強い憎しみを持つ人がいる。

ティネケはこんな話をした。「80 年たっても憎しみは完全には消えない。それでも憎しみの対象だった日本人と対話することで、その痛みが軽くなったことも知ってほしい。私たちは、自分たちの体験を話すべきだと思います。そして、この憎しみを終わらせなければならないと思います」。 ティネケの顔は、晴れ晴れしているように見えた。ティネケの娘は、私にこう教えてくれた。「母も、抑留所の体験は 70 過ぎまで家族に話さなかった」

ティネケの話を聞いた30代のエレンは、こんな感想を抱いたという。「ティネケはとても勇気がある。私の祖母は日本人を家にいれるかどうか……。私が日本に行った時、驚いたのは、オランダ人が日本軍に収容された歴史を知らないということ。まずは知ってもらいたい」

人間の尊厳を取り戻すためのティネケたちの長い日々に思いをはせ、私はハーグに立つ抑留者の慰霊碑に花を捧げる。自分が正しく、相手が間違っているという考えを越えて、相手の体験と想いを聞くことが分断を超える道なのではと、旅の終わりに私は思う。そして、ティネケの言葉を、若い世代に聞いてもらいたいと思っている。

受賞歴

Asian Side of the Docにて"Best Asian Pitch Award" (2014)
FIPAにて"Young jury award" (2014)

クレジット

監督・撮影・編集:小西 晴子
プロデューサー: 井手麻里子
制作: ドキュメンタリーアイズ

ディレクター/プロデューサー

ドキュメンタリーアイズ代表。イラク戦争下の市民の10年を描いた「イラク チグリスに浮かぶ平和」(綿井健陽監督 2014公開)他、映画の企画、プロデュースを行う。「赤浜ロックンロール」(監督作 2015公開)では、東日本大震災から立ち上がる漁師町の意地を描く。現在、戦争を体験した父の足跡を検証するドキュメンタリーを制作中。

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