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【京都市】上京区 京都五花街の一つ『上七軒』の魅力

高津商会RICALIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

『上七軒』

「上七軒」は、京都にある五花街の一つで、京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する花街のことを言います。

「北野天満宮」の節分祭などでも見事な舞を見せてくださった、舞妓ちゃんや芸妓さんたちは天神さんの横にある「上七軒」から来られてました。

京都最古で、第一の遊里なんですね。北野大茶会に差し出された御手洗団子も有名ですね。

舞妓ちゃんたちの後ろ姿もとっても素敵♪ 本当に惚れ惚れします。

室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。毎年春になると上七軒歌舞練場で『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。舞踊の流派は明治以前は篠塚流、その後は花柳流。茶道は西方尼寺で習っている。(wikiより)

節分祭で日本舞踊奉納をする舞妓さん
節分祭で日本舞踊奉納をする舞妓さん

節分祭で日本舞踊奉納する芸妓さん
節分祭で日本舞踊奉納する芸妓さん

日本には、大切にしないといけない伝統文化がたくさんありますね。本当に、日本舞踊を見ていると、思わずため息がでるほど美しい瞬間の連続です。

上七軒歌舞会

上七軒の歴史沿革は、古文献記録その他伝説等に依て之を要約すると、 文安元年(西1444年)室町幕府武営の頃、北野社殿が一部焼失し、時の将軍、十代足利義稙は所司代 細川勝元に命じて、社殿の造営をさせました。その際、社殿御修築の残材を以て、東門前の松原に、七軒の茶店を建て、 参詣諸人の休憩所としましたので、人呼んで七軒茶屋と称したのがその由来であります。その後、天正十五年(西1587年)八月十日、太閣秀吉、北野松原に於て晴天十日間の大茶会を催し「茶の湯熱心のものは、若党町人百姓以下のよらず来座を許す」 との布令を発したため、洛中は勿論、洛外の遠近より集まり来る者限りなく、北野付近は時ならず非常の賑わいを呈しました。その際この七軒茶屋を、豊公の休憩所に充て、名物の御手洗団子を豊公に献じたところ、いたく賞味に預り、 その褒美として七軒茶屋に御手洗団子を商うことの特権と、山城一円の法会茶屋株を公許したのが、我国に於けるお茶屋の始まりであると伝えられています。
現在、上七軒花街が、五つ団子の紋章を用いるのは、実にこの名物御手洗団子に由来するものであります。(歌舞会記)

今年は寿会が行われるそうですよ。

 近くは嘉永四年十二月徳川幕府は新しく茶屋株を公許するにあたり各花街に命じて仲間(なかま)というのを作らせましたので、上七軒は寿仲間、祇園町は栄仲間、二条新地は東仲間、七条新地は泉仲間と称しました。これが今日で言う組合の始まりであります。二条新地は享保十九年所司代へ願い出て、上七軒出店の名義で二条川東一帯で営業していましたが、惜しくも明治二十年廃止となりました。そのころ、お茶屋は目印として昼は暖簾、夜は行燈に各々寿、栄、東、泉の字を現して公許茶屋を表示したものでした。終戦後いち早く復活させた温習会を新しい時代の勉強会とするために、寿仲間の寿をとって、再出発の温習会の名称とした所以であります。切に御後援の程をお願い申し上げる次第であります。

会 期:令和4年4月24日(日)-30日(土)7日間
時 間:午後4時開演
24日・29日・30日のみ二回公演(午後1時30分/午後4時)
入場料:8,000円(税込)

(歌舞会記)

この機会に、歴史を感じながら伝統文化や伝統芸能を体験したいものですね♪

上七軒歌舞練場

場所:京都市上京区今出川通七本松西入ル真盛町742

LIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都で生まれ育つ。世界各地を周遊、欧米中心に20年ほど滞在し京都に帰還。日本のコアな伝統文化や芸能、神社仏閣や裏歴史、催事らを国内外の旅サイト・雑誌・新聞で執筆。経験に基づく“陰謀説”の電子書籍出版あり。ジャーナリスト、写真映像家、イベントプロデューサー、特殊ツアーガイドから日本庭園庭師までマルチに活躍。京都太秦にある老舗『髙津商会』にて映画・美術装飾・アート&エンタメ、海外事業に携わりつつ伝統文化・芸能などに関わる史実や古美術らについて勉強中。『京愛』や『日本愛』を深める毎日。

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