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【京都市】下京区 太夫道中など行われる花街『島原』

高津商会RICALIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

現在,京都花街組合連合会に加盟している花街として,祇園甲部,宮川町,先斗町,上七軒,祇園東の5つの花街があり総称して五花街と呼んでいるのですが、実は京都には「島原」という花街もあります。

島原(しまばら)は京都市下京区に位置する花街の名称。「嶋原」とも書く。正式名は西新屋敷といい、6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。島原は1976年に京都花街組合連合会を脱会し、現在は輪違屋のみが正式なお茶屋の鑑札を有し、置屋兼お茶屋の営業を行っている。(wikiより)

室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。桃山時代(1589年)には豊臣秀吉の許可を得て、原三郎左衛門らが二条万里小路(までのこうじ)に「二条柳町」を開設した。江戸時代になると六条付近に移されて「六条三筋町」と呼ばれるようになり、吉野太夫などの名妓が輩出した。ところが、1641年にはさらに朱雀野付近への移転が命ぜられ、以後「島原」と呼ばれた。「島原」の名称は、この移転騒動が島原の乱時の乱れた様子に似ていたためについたという説や、周りが田原であったため、島にたとえて呼ばれたという説など、諸説がある。(wikiより)

幕末には西郷隆盛、久坂玄瑞や新選組らが出入りしていたということも知られており、歴史的ロマンも感じますね。

正式名称は西新屋敷で6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。室町時代に公許された日本で最初の郭が三度の移転を経て嶋原と呼ばれるようになった。昭和時代後期に衰退し、京都花街組合連合会を脱会したため「京都の五花街」には含まれない。(wikiより)

『太夫道中』など、何度か私も見たことがありますが、きらびやかで惚れ惚れ憧れます♪

太夫道中の際の衣装は約45kgほどあるそうです。帯は「心」の字を表す5角形に前で結び、太夫道中では、高下駄を履き、内八文字を描きながら歩きます。特に名高いのが、寛永年間(1624〜44年)の2代目野太夫だそうで、当時の女性たちの憧れの存在だったそうです。

この辺りは「高津商会」の小道具などが活躍中の時代劇や映画なのでも使われるような歴史的建造物が多々あります。

現在は「大門」「輪違屋」「角屋」がその面影をとどめているだけで、現在もお茶屋として営業を続けているのは「輪違屋」のみですが、「角屋」は建築物としては今も日本に唯一残る揚屋造の遺構だったりするので、この辺りの探索だけでも楽しめますね。

 豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。  島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。  また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。(HPより)

花街 島原
京都市下京区花屋町通大門西入上之町

LIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都で生まれ育つ。世界各地を周遊、欧米中心に20年ほど滞在し京都に帰還。日本のコアな伝統文化や芸能、神社仏閣や裏歴史、催事らを国内外の旅サイト・雑誌・新聞で執筆。経験に基づく“陰謀説”の電子書籍出版あり。ジャーナリスト、写真映像家、イベントプロデューサー、特殊ツアーガイドから日本庭園庭師までマルチに活躍。京都太秦にある老舗『髙津商会』にて映画・美術装飾・アート&エンタメ、海外事業に携わりつつ伝統文化・芸能などに関わる史実や古美術らについて勉強中。『京愛』や『日本愛』を深める毎日。

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