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【京都市】下京区 旧花街「島原」太夫がいる「置屋」兼「お茶屋」現在も営業中『輪違屋』と島原歌舞練場!

高津商会RICALIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都の花街である「島原」で、元禄年間(1688~1704)に創業。「島原太夫」を抱える置屋兼お茶屋として現在も唯一営業を続ける「輪違屋」。

置屋として創業当時の名は「養花楼」でした。

9月24日までは~新選組ゆかりの島原に現存する唯一の置屋~として「第48回京の夏の旅」で内覧ができました。

建物は安政4年(1857)に再建されており、太夫道中傘を貼りこんだ銀地の襖が印象的な「傘の間」や、壁に本物の紅葉を塗りこんで型を取り彩色を施した「紅葉の間」など、斬新な意匠の座敷がみどころです。また新選組局長・近藤勇の書を屏風にしたてた「近藤勇墨跡屏風」や長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)の書の掛軸も残されています。

まず、 「花街」と呼ばれる場所では、“お茶屋” “置屋” “仕出屋(しだしや)”の3つの分業制となっています。

まず置屋や屋形は大抵お茶屋さんの近くにあり、芸舞妓を抱えている場所です。

置屋は、基本的に舞妓さんが生活するお家、お茶屋は舞妓、芸妓さんの職場です。芸舞妓さんはお茶屋さんに派遣されてお座敷につきます。

会場となるお座敷を持つお茶屋のお母さんが置屋から芸舞妓を、仕出し屋から料理を調達するとう分業制となってます。

舞妓への第一歩は、「仕込み」から始まります。花街で生きるための躾(しつけ)教育の期間でだいたい10ヶ月すぎて適性が認められたら舞妓の「見習い」に。この期間は約1カ月間。

置屋のお母さんや見習い姉妹が見守る中、見習いの場となるお茶屋の女将が仲人となり、本人とお姉さん芸妓が盃を交わし、お姉さん芸妓について、割れしのぶに髪を結い、半だらの帯にちょっと低めのおこぼ(桐のこっぽり下駄(げた))をはいてお座敷へ行き仕事を覚えます。

舞妓デビューは「店出し」といい、3日間、黒紋付きを着てお姉さん芸妓についてお座敷をまわります。

その姿をニュースなどで見かけると、がんばれ〜と応援したくなります♪

幕末にはあの新選組も訪れたかつての花街、京都・島原。この地で300年を超える歴史を持ち、今も唯一、営業を続けるお茶屋兼置屋「輪違屋(わちがいや)」。

1984年に京都市指定有形文化財(建造物)に指定されました。

輪違屋さんと言いますと、浅田次郎さんの本「輪違屋糸里」に登場する糸里さんは、「維新の名花」と例えられた「桜木太夫」さんがモデルだそうです。

この方は、"桂小五郎(木戸 孝允)の深い馴染みでのちに伊藤博文の愛妾となる"とありました。

「太夫の間」では、豪華な内掛けも見れましたよ!床の間には桂小五郎(木戸孝允)の書がかけられていました!

輪違屋さんの特別公開は24日で終わられたそうで、私も最終日になんとか滑り込みセーフ!

「高津商会」
「高津商会」

『高津商会』でも新撰組や幕末の志士関連の映画やドラマに使われた小道具がたくさんあります!

この「島原」の花街では、他の花街同様に『歌舞練場跡記念碑』がありました。

芸舞妓が活躍する「歌舞練場」では温習会や餅搗きなどの行事が行われていましたが、1996年に解体されたそうです。

「島原」は、日本最初の公許遊廊でした

当初は島原女紅場といい、芸娼妓に刺繍・裁縫などを教えたりもしていたそう。

「輪違屋」からもそう遠くないところに『歌舞練場跡記念碑』はありますよ〜。

輪違屋
京都市下京区西新屋敷中之町114

歌舞練場跡記念碑
京都市下京区西新屋敷中之町

LIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都で生まれ育つ。世界各地を周遊、欧米中心に20年ほど滞在し京都に帰還。日本のコアな伝統文化や芸能、神社仏閣や裏歴史、催事らを国内外の旅サイト・雑誌・新聞で執筆。経験に基づく“陰謀説”の電子書籍出版あり。ジャーナリスト、写真映像家、イベントプロデューサー、特殊ツアーガイドから日本庭園庭師までマルチに活躍。京都太秦にある老舗『髙津商会』にて映画・美術装飾・アート&エンタメ、海外事業に携わりつつ伝統文化・芸能などに関わる史実や古美術らについて勉強中。『京愛』や『日本愛』を深める毎日。

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