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【京都】長岡京 西国街道沿い「勝龍寺城」跡には歴史がいっぱい!明智やガラシャが過ごした史跡。

高津商会RICALIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都の長岡京市にある『勝龍寺城』は暦応2年(1339)、足利尊氏の命により細川頼春によって築城されました。

『勝龍寺城』は、応仁の乱の際には畠山義就の拠点が置かれたり、本能寺の変の後、山崎の合戦では光秀がこの城に本陣を構えたことでも知られます。

明智光秀の娘の玉(のちの細川ガラシャ)が細川忠興と幸せな新婚生活を送った城でもあり、その城跡は地元の人にも愛される公園になっています。

そこには、歴史にまつわる史跡がたくさん残されています。

この石造物が使われた石垣は有名です。確かにしっかりと石を見てみると、石塔などが使われているのが見えます。

元亀2(1571)年に、当時一帯を治めていた細川家の当主「藤孝(幽斎)」が、城の防衛のために築いた勝龍寺城の土塁・空堀跡は、長岡京市教育委員会により「遺構、出土遺物において学術上価値のある遺跡」として市の史跡に指定されてます。

土塁の一部が古墳を利用していることが発掘調査でわかったとか。

西辺土塁」は、本丸の土塁では、西辺に構築された土塁の南側が一番高く盛られているそうです。

西辺土塁は中央部が低くなっており、帯曲輪を通って沼田丸と連絡するための通路として利用されていました。

当時、有力国人であった神足(こうたり)氏の居館(現在の「神足神社」付近)を取り込む形で同所に二重の堀を築き、北側と北西側を土塁と堀で囲んだ惣構え構造となっていると言う説明を受けます。

『勝龍寺城』は、京都盆地の西南部の小畑川と犬川の合流地点に位置し、西国街道と久我畷が交差する交通上の要衝でもあります。

本能寺の変の後、山崎の合戦では光秀がこの城に本陣を構えました。

「山崎の戦い」に敗れた明智光秀が最期の夜を過ごした場所でもあります。

孤立無援の山崎の合戦…お堀を上から見ることで城の作りがよくわかります。

山崎合戦で羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、この北門から逃げ出したと言われています。

丘の上から北門跡をみると、あそこから明智が逃げたのか…と一瞬そのドラマが垣間見れる気がします。

公園内では、ガラシャゆかりの水もいただけます。

「ガラシャおもかげの水」。

地下水100%の水道水を供給しているそうです。

また、井戸もありました。

城にとって最も大切な水源が得られる井戸は、本丸内から四か所で発掘されました。

井戸跡は本丸の細川藤孝が改修した際に作られていて、四角形に組んだ角材の上に円形に石を積み上げて作られているそうです。

細川忠興とガラシャの銅像も公園内にあります。

「高津商会」では、日本各地で行われるお祭りのお手伝いすることも多々あり、城を訪ねる度に感慨深い思いになります。

細川忠興に嫁し、天正15(1587)年にキリスト教の洗礼を受けた玉は、洗礼名であるガラシャと名乗ります。ラテン語で「神の恵み」という意味があるそうです。

戦国の世でキリシタンとして壮絶な最期を遂げた細川ガラシャの生涯を思いながら平成4年に完成された「勝龍寺城」跡公園と近辺探索をしてみてはいかがでしょう。

勝龍寺城公園
所在地:長岡京市勝龍寺13-1
電 話:075-952-1146

LIFE&文化芸術☆プロデューサー/ジャーナリスト(京都市)

京都で生まれ育つ。世界各地を周遊、欧米中心に20年ほど滞在し京都に帰還。日本のコアな伝統文化や芸能、神社仏閣や裏歴史、催事らを国内外の旅サイト・雑誌・新聞で執筆。経験に基づく“陰謀説”の電子書籍出版あり。ジャーナリスト、写真映像家、イベントプロデューサー、特殊ツアーガイドから日本庭園庭師までマルチに活躍。京都太秦にある老舗『髙津商会』にて映画・美術装飾・アート&エンタメ、海外事業に携わりつつ伝統文化・芸能などに関わる史実や古美術らについて勉強中。『京愛』や『日本愛』を深める毎日。

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