ショートフィルム

五輪準備の陰で消えゆくドヤ街・山谷 愛された“けんちん汁”守る夫婦「忘れないで」

桑原豊

ドキュメンタリーディレクター

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「思い出なんて作っちゃダメ。ここは『山谷』だよ?」。長年暮らした簡易宿泊施設(通称「ドヤ」)の跡地を前に、元住人の男性がそうつぶやいた。
東京五輪・パラリンピック開催に向けた再開発の陰で、消えていく景色がある。東京都台東区から荒川区にまたがる国内最大規模のドヤ街「山谷地区」。日雇い労働者たちの“居場所”となっていたドヤが今、再開発のために次々と取り壊されているのだ。その山谷で、朝食屋「大倉屋」を営む石橋新平さん(83)と妻ヒロ子さん(84)。祖父と父から受け継いだ店を40年にわたって守り、その味は地元で「懐かしい」と愛され続けてきた。ただその店も、石橋夫妻の高齢のために店じまいを考える時期に差し掛かっている。「やれるだけやるけど、買い物もできなくなるから……」。山谷を見守ってきた二人は今、消えゆく景色をどんな気持ちで見つめているのか。再開発されるドヤ街の1年を追った。

■最盛期1万5000人も現在は3500人…衰退する山谷で売る「けんちん」
「ここのけんちんが美味いんだよな」。2019年5月の平日、午前6時。山谷で日雇い労働者たちの話を聞こうと筆者がドヤ街を歩いていた時、「最後の手配師」を名乗る男に連れていかれたのが、大倉屋だった。店に着くと、男がうれしそうにそう話した。
手配師とは、道行く日雇い労働者に仕事を紹介する人のこと。昭和30年代の高度経済成長期、1964年の東京五輪の開催を機に多くの労働者が山谷に滞在し、日雇いの仕事に就いていた。その労働者は最盛期に1万5000人いたとも言われる。しかし高度成長の終わりに合わせて山谷の労働市場が衰退。東京都によれば2018年時点で住人は約3500人、平均年齢67歳の高齢者の街となっている。その約9割が生活保護を受給して暮らしているとされ、かつては街に多くいたとされる手配師も、今ではほとんど姿を消している。
大倉屋は5階建てアパートの1階部分を厨房にしたテイクアウト専門の店で、窓越しに商品を受け取れる。営業は平日と土曜日の午前中で、メニューはけんちん汁とおにぎりのみ。厨房内に貼ってある演歌歌手のポスターが印象的だ。
手配師の男は、慣れた口調で「けんちん」を2杯注文した。汁がたっぷり入った器を受け取り、筆者が礼を言おうと男の方へ振り向くと、逆に「案内料」としてけんちん汁2杯分の代金540円を支払うように言われた。男はテイクアウト用の袋を受け取ると満足そうに去っていった。
けんちん汁は里芋、にんじん、豆腐、大根、ゴボウ、白菜、ねぎ、こんにゃく、油揚げが入っていて、高齢者でも食べやすいように圧力鍋でしっかり煮込まれている。ごま油が多いせいか、汁は香ばしく、肉が入っていなくても満足して食べられた。

大倉屋には、ぽつぽつと客がやって来る。腰が曲がった人、足を引きずる人、杖をつく人……。高齢者ばかりだ。「病院行ってきたんだよ」「今朝は浅草まで歩いてきた」と近況報告をするだけで何も買わずに去って行く者もいる。大倉屋とは、山谷の人たちにとってどんな場所なのだろうか。

■3代目の豆腐屋から転身の朝食屋 住人の「唯一の楽しみ」
「癖になっちゃうんだよな。この辺で(大倉屋を)知らない人はいないよ」。けんちん汁を早朝に買っていた男性がそう話す。また別の男性は、「昔の味がする。(石橋さん夫妻は)お父さんとお母さんだよ」と笑った。
「一般の(山谷在住ではない)人は9割9分来ない」と話す店主・石橋さんは、山谷で豆腐屋を営んできた家系の3代目だ。栃木出身のヒロ子さんと20代半ばで結婚した。ヒロ子さんは山谷に嫁いだことについて「怖い思いをしたことは一切なかった。街のみんなも『お姉さん』って呼んで、慕ってくれたの」とうれしそうに思い返す。
2人の子どもを授かった石橋夫妻は、次第に仕事と育児の両立が困難になり、店の建て替えのタイミングで規模を縮小、メニューを田舎汁(けんちん汁)に限定して再出発した。けんちん汁を選んだのは、家庭用に作り過ぎたけんちん汁を豆腐屋時代の常連客に振る舞ったところ、「これやったら売れるよ」と太鼓判を押されたことがきっかけだった。「(山谷の住人はけんちん汁を)昔田舎で食べたから、懐かしんでくれる」とヒロ子さんは話す。
 常連客の男性Rさんは、毎朝5時に起きて散歩に出かけ、大倉屋でけんちん汁を買って家路につくのが日課だ。若い頃は建設現場で働く1児の父だったが、仕事中の事故で片目の視力を失い、「家族を養っていけない」と自ら離婚を切り出して身を潜めるように山谷に「堕ちて来た」という。「山谷は人間関係がないから楽だよ」とどこか諦めたように話す一方で、大倉屋には必ず通い、夫婦との会話は「唯一楽しみにしている」と言った。
 そんな大倉屋を取り巻く環境は今、急激に変わりつつある。東京五輪・パラリンピックなどに向けた再開発のためだ。

■「観光拠点」へ生まれ変わる山谷 “居場所”を失う労働者
台東区は2019年3月、東京五輪の開催やインバウンド増加に対応するため観光拠点としての機能強化などを目指し、『都市計画マスタープラン』を策定した。山谷を若い世代にも開いていくことを念頭に、この計画書の中で山谷(「北部地区」もしくは「北部地域」と表記されている)はまちづくり推進重点地区に選定されており、「木造建築の建て替え」、つまりドヤの解体が目標に掲げられている。
東日本大震災を受けて東京都は2012年から、火災時の延焼などによる被害を防ぐための「木密地域不燃化10年プロジェクト」を実施。山谷でも防災活動の拠点などの不燃化が進められてきた。2017年からは住宅地域にも不燃化推進エリアが拡大。2021年3月末まで建て替えに240万円の助成金が支払われることになった。
こうした行政の取り組みを背景に、観光地の浅草や東京駅へアクセスしやすい山谷では集合住宅の建設が進んでおり、訪日外国人向けのドミトリーも増えている。筆者が取材中に遭遇しただけでも3箇所でドヤが解体されていたが、いずれも助成金を使った集合住宅への建て替えだという。

他方で山谷の再開発は、日雇い労働者たちの「居場所」を奪ってもいる。東京都山谷対策本部が2018年に実施したアンケート調査によると、仕事をしていない人の91%が昼間の居場所は「今泊まっている部屋」と答えている。
大倉屋の常連客の男性Bさんは2020年3月、8年間住んだドヤを失った。閉鎖の通達が来たのはわずか1カ月前だったという。区の職員が山谷区域外 にある都営住宅を紹介してくれたこともあったが、「居心地が良くなさそうだったので、近所にある別のドヤに移ることにした」という。Bさんに昔のことを尋ねると、 「こんなところで思い出なんかつくっちゃダメ。良い思い出じゃないんだから」と言う。ただ、大倉屋の夫婦の前では思い出を語り、「死ぬまで買いに来るからね!」と安心させるように言った。
ドヤでの暮らしは一カ月で約6万円かかるが、都営住宅の場合、条件を満たせば2〜3万円で個室利用ができる。Bさんは山谷での暮らしを続けたが、都営住宅への引っ越しを決める人も少なくない。
2020年4月に国内で新型コロナウイルス感染症が拡大すると、山谷でも再開発の工事の音が一時的に止んで街は静まり返った。5月末に感染者も1人確認された。ただ、炊き出し支援でマスクが配布されるなど予防がなされ、感染の広がりは確認されていない。5月下旬に緊急事態宣言が解除されると、工事の音は再びけたたましく鳴り響いていた。

■日雇い労働者の「ふるさと」山谷 景色と共に失われつつある“味”
変わりゆく山谷の風景を、石橋さん夫妻はどんな気持ちで見つめているのだろうか。
石橋さんは往年に思いをはせて、「昔はね、東京タワーを建てに行ったり、オリンピック(の設営に)行ったりして、うじゃうじゃ人がいっぱいいたの。仕事もいっぱいあったんだよその頃は」と懐かしむ。しかしかつてのにぎわいは、今や見られなくなった。石橋さんは「本当はみんな山谷に住みたいんだよ」と明かす。
 実際、転居先での人間関係や住環境に馴染めず、山谷に戻ってきた人の話を聞くことがよくあるという。「この間は、江東区の都営住宅に引っ越した人が、お金もないのにタクシーに乗って、山谷に戻ってきたんだよ」。山谷は日雇い労働者の街であると同時に、いつの間にか暗い過去を抱えて生きる人々の「ふるさと」になっていたのかもしれない。
 ただ、山谷に戻ってきた人はその後、「馴染みの居酒屋の店主がタクシー代を立て替えて家に帰したんだけど、それきり姿は見ないね。その人、もう死んじゃったんじゃないかなぁ」。石橋さんは寂しそうにして俯いた。
街の衰退と重なるように、石橋さん自身も店の今後を考える時期が来ている。「もう歳をとっちゃったから去年の11月から、日曜祭日は休みにして、平日も午前しかやらなくなったんだよ」。周りの店は次々とシャッターを下ろしている。石橋夫妻も「85歳になったらどうするか考えたい」。例年の夏休みは5日程度だが、今年は8月下旬の約2週間を休業することにしたという。「歩くのも一苦労だから、引退後はゆっくりしたい」と、近い将来に閉店する覚悟も匂わせた。
再開発が進む山谷の「今後」をどう思っているのか尋ねると、石橋さんは「(山谷の再開発には)従うしかないし、難しいことは分からない」という。他方、変化は肌で感じている。「ドヤがなくなり、新しいマンションが建って、外国人観光客も増えた。でも(以前から知る人は)みんな引っ越したり死んじゃったりして、ずいぶんいなくなったよね。以前の活気はなくなったよ」

一年にわたる取材が終わろうとしていた6月のある朝、いつものように店に行くと珍しく若者グループの姿を目にした。「山谷がどういうところか見にきた」と話す3人組に、石橋さんは私にしてくれたように山谷の歴史を話していた。3人は店の前で立ちながら汁をすすり、熱心に聞き入っていた。石橋さんは山谷の「今後」についてはほとんど語らなかったが、最後に3人にこう伝えて微笑んだ。「こういう場所があったってこと、忘れないでほしいんだよね」と。

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