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【横浜市保土ヶ谷区】公園は火薬工場の跡地!?日本の発展を支えた痕跡をめぐる小旅行【たちばなの丘公園】

みうけん地域情報発信ライター(横浜市)

横浜市地域情報クリエイターのみうけんです!

横浜市には港の風景が美しい山下公園や港の見える丘公園、四季を通じて池に親しめる三ツ池公園、潮干狩りや砂浜遊びが楽しい海の公園など、いろいろな公園がありますよね。

今回紹介したいのは、横浜市に数ある公園の中でも「火薬製造工場であった」という異色な経歴を持つ、「たちばなの丘公園」を紹介したいと思います。

その「たちばなの丘公園」は、横浜市旭区市沢町にあり、環状2号線のすぐ脇にあります。「環2市沢上町」の交差点から海側へ進み、「県公社住宅前」のバス停を過ぎたあたりの角を左に入っていくと、やがてこんもりとした森が見えてきます。

入り口はいかにも公園の入り口といった感じなのでわかりやすいですが、駐車場はありません。入り口脇は駐輪場になっているので、ここに愛車のバイクを停めて園内を散策する事にしました。

※写真に写っているバイクや自転車は筆者のものではありません。

公園に入ってすぐに見えてくるのが立派な公衆トイレ。

清掃も行き届いており、安心して利用できました。男女別、バリアフリートイレもあります。

トイレに向かって右側にあるのが、かつての火薬製造室の入り口だったところ。

この公園は、昭和の時代は「日本カーリット保土ヶ谷工場」があり、主に産業用の発破を手がけていたそうです。

産業用とはいえ、先の大戦では軍需工場に指定されたり、戦後は工場内にあった火薬を奪取しようとした過激派が侵入を試みるなど、歴史と共に歩んできた工場でもありました。

園内は広々としており、平日の昼間ということもあって訪れる人もまばら。

時折犬の散歩をする方とすれ違うくらいです。

広々としており、と言っても公園として整備されたのはかつての火薬工場のごくごく一部だそうです。

園内には至る所に説明看板が掲げられていました。

こうして歴史資産として残すだけではなく、この遺構がなんであったのかまで詳細に解説されているというのは見学者にとってありがたい事ですね。

上の写真のトンネルを覗いてみると、中にはレールが残されていました。

これは昭和30年代まで原材料や製品の運搬に使用されていたトロッコの線路。

火薬工場の解体整備の際に発見されたものが展示されているそうで、かつてはダイナマイトを満載したトロッコがこの線路の上を走り、このトンネルをくぐって行ったのかと思うと感慨深いものがありました。

このたちばなの丘公園には、ところどころ土盛りが残されています。

これは「土塁」(どるい)という土盛りで、火薬類の製造を行う「室」と呼ばれる建物や、火薬庫の周囲をぐるりと取り囲むように設けられました。

万が一、爆発事故やなどが起きた際に周囲に及ぶ被害を最低限に抑えるために設けられます。

火薬類取締法の規定により、その高さや厚みは厳格に定められているそうです。

このたちばなの丘公園には現在4ヶ所が保存されています。

昭和30年代の工場稼働時期には、40ヶ所以上の土塁が設けられていたというから驚きです。

こちらは、「第四混和工室【4K】」と呼ばれていた作業室の入り口。

爆薬の原材料となる過塩素酸アンモニウムや硝酸アンモニウムなどを混ぜ合わせる工室があったそうです。

門の上には工室での製造工程を示す記号 【4K】が今でも残されています。

ここから先は立ち入ることは出来ませんが、中がどうなっていたのか気になりますね。

こちらは、「第九填薬工室 【9T】」の入り口。

爆薬の材料を薬包紙や紙筒、ポリエチレン筒などに一定量充填し、薬包を製造する工室があったそうです。

このような感じで、園内にはいくつかの作業室の入り口と、その作業室を囲っていた土塁が残されています。

各土塁には出入口となるトンネルが2本ありました。

よく見ると、トンネルの中にも退避場となる空間があります。

現在保存されているトンネルは8本ですが、うち7本がレンガ造り・1本がコンクリート造りの状態で残されているということです。

少し歩くと、土塁の中を上から眺められるところがありました。

目を凝らしてみてみましたが、現在は作業室の後は樹木が生い茂っているようでした。

林の中を少し歩いていくと、「万年塀」(まんねんべい)というものが残されています。

もともと高さ1.8mだったそうですが、現在は少し低くなっているようです。

かつて、この壁はカーリット工場と外界を隔てる、結界のような働きをしていたのでしょう。

工場の敷地をグルリと囲んでいた塀も、現在はここだけが残されています。

◆◇◆後記◆◇◆

この「たちばなの丘」公園は、保土ヶ谷区と旭区にまたがる12.4haの面積を誇ります。

そのうち、日本カーリット株式会社保土ケ谷工場の跡地になっているのは保土ヶ谷区側の約 3.5haの敷地となります。

日本カーリット保土ヶ谷工場は、 大正8(1919) 年、橘樹郡保土ケ谷町(現在の保土ヶ谷区仏向町) で操業を開始し、平成7(1995)年に工場が閉鎖されて群馬県に移転するまで、日清・日露戦争や太平洋戦争で、また戦後の経済発展に伴う土木工事用のダイナマイト生産拠点として、大きな役割を果たしました。

現在は訪れる人もまばらな広い公園ですが、その所々にかつての日本の成長と歴史を支えて来た痕跡を残しています。

この撮影をした日も平日の午前中という事もあり、数人の方が犬の散歩をしている程度でしたが、かつての日本の産業と歴史を支えてきた思い出の痕跡を歩き、かつての光景に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

地域情報発信ライター(横浜市)

愛車はヤマハのシグナスX。原付またいで、見たり聞いたり食べ歩いたり。風にまかせてただひたすらに、ふるさと横浜とその近辺を巡ります。

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