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琉球ガラスに革命を起こした父を超えたい――売上減、材料減のコロナ禍で2代目が挑む「常識外れ」のグラス

水本博之映像作家・監督

沖縄では戦後、米軍が消費したビールやコーラの空きビンを溶かしてガラス製品を制作し、生活の糧とする職人たちがいた。そんな中、再生ビンという素材のデメリットを逆手に取り、気泡を閉じ込めた「泡ガラス」が開発される。生み出したのは、稲嶺盛吉さん(81)。息子である盛一郎さん(50)は、父との比較や重圧に葛藤しながらも、盛吉さんの工房を継いだ。2020年、コロナ禍で売上が9割減少。「自分たちの技術と手間を上乗せして、製品の質と単価を上げるしかないんですよ」。苦境の中で、父も作らなかった「常識外れ」の作品制作に挑んでいる。

●「泡ガラス」が生まれた理由は

「昔の琉球ガラスは泡が入ると2級品で。廃ビンは溶かすと泡が出るんですよね。そこで盛吉(父)が、『こんなに泡が入るんだったら、いっそのこと泡ガラスにしてしまおう』と考えたのが始まりなんですよ」

そう語るのは、宙吹ガラス工房『虹』の代表である稲嶺盛一郎さん。2020年、父・盛吉さんから工房を継いだ。琉球ガラスは廃ビン由来の製品で、泡の入ったものは特に人気がある。「泡ガラス」を生み出し、現代の名工にも選ばれているのが盛吉さんだ。

琉球ガラスが作られるようになったのは明治中期だといわれている。関西や九州から沖縄に職人が移ってきて、屑ガラスを溶かして製品を作った。ガラスの材料探しが常に課題となっていたという。

太平洋戦争で苛烈な地上戦を経験すると、沖縄は深刻な物資不足に陥った。戦後、アメリカ統治下で、米軍がお酒やジュースを大量に消費する。そこで無数のビンが放出された。沖縄のガラス職人たちは、それらを溶かして製品を作り始めたのだ。

盛吉さんは戦後、苦しい生活の中でガラス作りに没頭した。米軍関係者による発注が多く、パンチボールセットや、キャプテンビンなどをよく作った。

再生ガラスは不純物が混入していて、泡が入ることが多い。泡が入ったものは2級品とされるため、職人たちは苦心した。泡に辟易した盛吉さんは、米ぬかや備長炭をガラスに投入。あえて泡だらけの製品を作り上げた。「職人たちから、稲嶺盛吉は頭が狂ったと言われたらしいですよ」と盛一郎さんは言う。

しかし、泡ガラスはたちまち人気商品に。「琉球ガラスといえば泡ガラス」とイメージされるほど、一時代を築いた。盛吉さんは他にも、カレー粉、赤土、紅サンゴなど、身近な素材を廃ビンと掛け合わせて独自のガラスを生み出した。

再生ガラスは通常の原料ガラスと比べ、硬化する速度が3分の1ほどと短く、薄く伸ばすこともできない。通常より手早く仕事をする必要があるうえ、扱いにくいのだ。それでも『虹』工房では、廃ビンによる再生ガラス一筋で製品を作り続けている。

●苦境のコロナ禍で、偉大な父の後を継ぐ

盛一郎さんは少年時代、無口な父とほとんど会話をしたことがなかった。中学卒業後、父の伝手があるガラス工房で働き始め、同じ道に進んだことで父と仕事の話ができるようになった。20代半ばで父の宙吹ガラス工房『虹』に移ると、今度は偉大な父と比較され、重圧を感じた。

「『親父が築き上げたものを継いで本当に大丈夫か?』って人から言われてました。夜中に目が覚めると、冷や汗かいているんですよ。本当に震えが止まらなくて」

尊敬の念を抱きつつ、父を超えたいという強いライバル意識を持った。2014年には父の工房を辞めて独立。それまで培った技術をベースに、廃ビンの色を混ぜ合わせて独自の色を生み出した。父の作った色とは趣の異なる、青みのある赤色「紅葉」、光によって色が変化して見える「オーロラガラス」の開発に成功した。そして2020年、高齢になった父に呼ばれ、宙吹ガラス工房『虹』の代表を継いだ。

工房を継いだばかりの盛一郎さんが直面したのは、コロナ禍だ。注文は減り、売上は10分の1に低下した。窯に火を入れるとコストがかかるため、2020年は製造できない期間が多かった。その状況は今も断続的に続き、2021年7月にも窯を停止させている。

飲食店の休業でお酒の消費が減ると、廃ビンの入手にも影響が出る。コロナ以前は酒造会社からいくらでも原料となる廃ビンが調達できたが、今ではなかなか手に入らない。酒造会社が出荷減で余らせた新品のビンを譲り受ける、いびつな状況が生まれている。

発注元である沖縄の土産物店や民芸品店も苦境にあった。観光客が激減し、『虹』工房のガラスを扱う那覇市の久高民藝店も9割近く売上が減った。久高民藝店のスタッフの比嘉さんはこう言う。

「職人の方々はがんばって活動し続けているので、売上の伸びない状況でもお客さんと作家をつなぐ役割を担いたい。だからこそお店を開けているものの、やはり経営は厳しい」

盛一郎さんはピンチの時だからこそ、新しいガラス製品の開発に挑み始めていた。

「自分たちの技術と手間を上乗せして、製品の質と単価を上げるしかないんですよ」

●常識を破る「持ちにくく、飲みにくいグラス」

この一年、盛一郎さんは新たな作品制作に取り組んでいる。それは、持ちにくく、飲みにくいグラスだ。依頼したのは、料亭春日を営む料理人・春日忠明さん。春日さんはこう話す。

「飲みにくいグラスになれば、脳が口に集中するわけですよ。ということは、飲み物をよりおいしく感じるはず」

盛一郎さんは35年間のキャリアの中で、たくさんのグラスを作ってきた。グラスの基本は、持ちやすく、口当たりがよく、飲みやすいこと。あえて飲みにくく形状を崩すとは――。完成形のイメージがつかめず、何度も依頼を断ろうかと迷った。

しかし、「父とは違うことを」という思いが後押しした。

「親父と同じことやったらダメなんですよ、親父がやらないことをやれば、自分が最初だから、超えてるんですよね。そう視点を変えたんです。『崩す』っていうのは親父のやってきたこと。でもグラスまではやっていないんですよね」

そう盛一郎さんは言う。現役時代の盛吉さんは溶けたガラスを巧みに操りながら、動きと迫力のある作品を生み出してきた。ただし花瓶やツボ、大皿など大きな作品に限っており、グラスは徹底して持ちやすさ、飲みやすさを重視したのだ。

このことが盛一郎さんをわくわくさせた。父が取り組まなかった「グラスを崩す」というテーマに向き合う。もしかしたら自分に課された試練なのかもしれない、と。

依頼者とイメージを話し合いながら、多くの試作品を作った。最初に作ったのは三つ脚のグラス。魅力的な形にならずに断念し、父の時代から働く弟子には「何を作っているんだろう?」と訝しまれた。

●あほになったと言われるかもしれない

2021年9月、『虹』を訪ねた。逃げ場のない暑さが工房に立ち込める。

1400度まで温度を上げる窯の周囲で、足を止めることなく動きまわる職人たち。るつぼの中は、数メートル後方に下がっても熱くて直視できない。盛一郎さんと職人たちが機敏に連携し、真っ赤な水飴のようにも見える溶けたガラスを操る。

この日、盛一郎さんは春日さんから「もっと飲み口を暴れさせてほしい」と相談された。しかし言葉通りに受け取って、ガラスをただ「暴れさせる」のではだめだ。

波立った形状でもグラスとしての強度や安全性は必要で、きちんと液体を飲めなければいけない。硬化速度の速い再生ガラスを、真っ赤な水飴のような状態から一瞬の判断で波立たせるのは難しい。失敗すると飲み口の厚みに極端なむらが出て強度が失われたり、くっついたりするのだ。

この日も10個ほど失敗して捨てた。だが、1、2、3回……と試作の数が増えるにつれ、グラスの完成形のイメージに重なり始めていた。盛一郎さんの手に迷いがなくなりつつあった。

「同じことをしても、これだけ表現が変わるっていうのがガラスの面白さですね」

翌日、徐冷窯(高温のガラスを一晩かけてゆっくりと冷ますための窯)から、完成品を取り出して見せてくれた。海面のうねりのようなグラス。春日さんも、これまでの琉球ガラスの常識を破るような仕上がりに喜んでいる。

「ガラス屋さんも同業者も驚くはず。もしかしたら稲嶺盛一郎はあほになったと言われるかもしれない」

そう言って嬉しそうに笑う盛一郎さん。盛吉さんも常識外れの泡ガラスを作った時、周囲から馬鹿にされたものだった。

「親父が自分の作ったものを使って、『こんなすごいものを作ったんだな』と言ってくれたら、それが褒め言葉。売れたらそっと家に置きます。親父が健康なうちに、首を縦に振るような作品をがんばって作っていきたいと思います」

クレジット

監督・撮影・編集 水本博之
音楽 岸剛
プロデューサー 前夷里枝 細村舞衣

映像作家・監督

映像作家・監督。グレートジャーニーで知られる探検家・ 関野吉晴の道具作りからはじめたカヌーの旅に同行したドキュメンタリー映画『縄文号とパクール号の航海』(2015年公開) を撮影・監督。同作は2018年現在も劇場公開中。以降、現在も国内および東南アジアで急速に変化する伝統社会と文明の関係について取材を続ける。一方で手づくりにこだわったストップモーション・アニメーション映画も監督・制作し劇場公開している。2006年 武蔵野美術大学 映像学科 卒業、2009年 東京藝術大学 大学院美術研究科 修了。

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