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人はどのように愛する者の死を受け止めるのか 12年間の記録の意味 #知り続ける

森田雄司ドキュメンタリー作家

2011年3月の東日本大震災の直後から、被災者の過酷な体験や家族を失った悲しみの聞き取り調査を続けている学者がいる。関西学院大学社会学部教授の金菱清さん(47)。毎年この時期に集中するマスコミ報道は目に見えやすい被害の爪痕にかたよりがちで、被災者が日常生活の中でなおも抱き続ける心の機微はなかなか表には出てこない。そうした「声にならない声」を拾っていくことで、「人間が絶望にどう向き合っていくかというヒントを社会で共有したい」。そんな思いから被災地で続ける研究の最前線を見た。

■自身の判断で妻と孫を津波に奪われた被災者の苦悩
震災から11年半たった2022年9月。金菱さんは、宮城県石巻市の北上町十三浜を訪れた。一緒に住んでいた妻と孫を津波で失った佐藤清吾さん(81)に会うためだ。震災前からの知り合いだったが、震災後も折に触れ、聞き取りを続けている。佐藤さんは失った家族とどう向き合っているのか、そこに時の経過がどう影響しているのかを知るためだ。

佐藤さんは震災までは妻と娘、小学生1年生の孫の3世代で暮らしていた。地震発生時は妻と孫の3人で自宅に、娘は勤め先にいた。大津波から逃がれるため、佐藤さんは妻と孫を200mほど離れた山の奥にある自分の生家へ車で避難させた。明治三陸地震でも津波が到達しなかったところで、安全だと信じていた。佐藤さんは2人を残し、自宅近くの高台から津波を待った。ところが、襲いかかってきた津波は予想をはるかに超える17メートルの高さで、集落は壊滅。生家に駆け戻ったが、すでに跡形もなかった。2人の行方はまだわかっていない。それ以来、自らの判断で家族を失ったことへの自責の念を背負い続けている。

金菱さんが佐藤さんに問いかける。「亡くなった2人を生活の中で思い出すことはありますか?それは震災前と後で変化していますか?」。佐藤さんは、こう答えた。

「生前の記憶がよみがえって、何かをやる度に喜んでくれたり、笑ったりする2人の姿が何度も現れるのよ。何日かに1回じゃないんだよ。1日に何度も。それが俺の日常だもん。」その一方、最愛の家族を喪ったことで、後悔の念にさいなまれることも少なくない。
「津波が来た時の判断のミスっていうのは絶対消えないから。これは死ぬまでだからね」

この聞き取りでわかったのは、故人があたかも生きているかのようにともに笑ったり怒ったりしながら、震災前と同じような関係を結んでいるということだ。「当事者にとってみれば、震災は過去のこととして終わりというわけにはいかない。11年たっても、苦悩やつらさとともに、故人と向き合わなければならない」と金菱さんは話す。

聞き取りにあたって心がけているのは、当事者の気持ちを合理的に理解しようとはしないことだ。当事者の気持ちが揺れ続けていることが多いからだ。「被災者」とひとくくりに捉えるのではなく、一人ひとりの人間として向き合い、時間をかけて抱えている苦悩を一緒に解きほぐしていくのが大切だという。

また、単なる事実の積み重ねで終わってしまうのを避けるため、故人への手紙を書いてもらったり、夢の中での故人との出来事を記録してもらったりと、さまざまな方法で遺族の心の内を探っている。それにより、当人でも気づかなかった思いが表現されることもあるそうだ。

「被災者が困難に直面した時に何が問題なのかということを一緒に考えて、その人が一歩でも二歩でも前に進めるヒントを言葉にして表現していきたいと思っています」

■二度の震災経験から「報じられない声」を記録
金菱さんが研究を進めるうえで懸念しているのが、ほかの研究者やマスコミの動向だ。彼らはどうしても見えやすい被害の大きさや、共感しやすい遺族の感情ばかりを取り上げがちだ。それでは「未曽有の大災害」という一言に集約されたイメージだけが社会に浸透してしまい、見えにくい問題は「当事者にしか理解されないことだ」と被災者が心を閉ざしてしまう。金菱さんは、社会と当事者たちとの心の乖離(かいり)を埋めていくことが、本当の意味での復興につながると考えている。

その原点となったのが、阪神淡路大震災での自らの被災体験だ。大学受験を半月後に控えた1995年1月、大阪府池田市の自宅で就寝中、ピンポン玉みたいに跳ね飛ばされるような衝撃で目が覚めた。その後、テレビでは建物や高速道路の倒壊といった大きな被害の映像が流された。その時に感じたのが、そんな状況下で、どういう人たちがどんな声を挙げているのかという疑問だった。「テレビには映らない被災者の声を知りたいと思った」

その後、仙台市の東北学院大学で教員となった金菱さんは、2011年に2度目の震災を経験する。「阪神大震災では自分は何もできなかった。今度は何ができるんだろうと考えた時に、まずは人々の記録を取らなければという思いになった。目の前で起きている問題や疑問について真剣に向き合いたい。いま、こたえるべき時だなって感じたんですね」。人間は絶望にどう向き合っていくのか。被災者の声の記録は、そんな問いへのヒントとして共有できるかもしれない。こう考えた金菱さんは、間もなく東北3県で聞き取りを始めた。2020年に関西学院大学に移ってからも調査を続け、その数はこれまでに100人に上る。

■研究で見えてきた被災者の心
聞き取りを重ねるうちに、金菱さんはあることに気がついた。聞き取りをまとめた本を遺族に渡すと「亡くなった息子のことを本に書き残すことは、親が最後にしてあげられることだ」と感謝された。故人への思いを保存できて肩の荷が少しだけ下りたという人もいて、遺族の葛藤を知った。「大きく取り扱われることのなかった死者と残された者との関係性を考えることが、研究すべき重要なテーマだと感じたわけです。その中で災害との向き合い方、死との向き合い方を考えてみたいと思うようになりました」

■「あの時、母を助けられたかもしれない」髙橋匡美さんの心の揺れ
震災で両親が犠牲になった石巻市出身の髙橋匡美さん(57)は、震災をきっかけに金菱さんと出会い、いまは全国でその体験を語る「命のかたりべ」の活動をしている。

「母は小さくうつ伏せになって倒れていました。死ぬと小さくなるんですね。それが人だって気づかなかった。だって髪や服が泥だらけだった。その上に瓦や材木が落ちていたから、母だと気づかなかった。現実だと受け入れられなかった」。大好きだった母を失った怒りと悲しみを込めて、高校生たちに語りかける。

塩竈市に暮らす髙橋さんは地震の夜、両親が住む石巻市南浜町へ息子と車で向かった。ところが途中でタイヤがパンクしたためその日は自宅に戻った。翌日、実家に着いてみると、うつ伏せに倒れて動かない母を見つけた。死因は溺死とされたが、ある報道を見たことで髙橋さんは自分を責めるようになった。

「母は見つけた時に口を閉じてたんですね。溺死となってるんですけど。報道を見ると低体温症で亡くなったのかなって思ってるんですよ。私があそこで諦めずに背負って帰ってきたり、もっと早く駆けつけて温め続けたりしたら、母は蘇生したんじゃないかって。亡くなったのは自分のせいなんじゃないか、助けられたのかなっていう後悔はずっとありますね」

■「やめちゃおうかな」葛藤に揺れた語り部活動
髙橋さんが語り部活動を始めたのは2015年3月。スピーチコンテストで被災体験を話したことがきっかけだった。金菱さんと出会ったのはそのころだ。「自分の話を聞いてもらえたことで心がすごく癒される感覚があった。そして何かのためになっていると思えたことがうれしかった」と髙橋さんは振り返る。当時、石巻でも震災の記憶が風化してきたと言われ始めていた。「語り部の依頼がなくて、『もうやめちゃおうかな、生きてるのもいいかな』とつぶやいていたら、金菱先生が『僕の大学で授業やりましょう。だから来年の5月までは生きててください』って」

それから髙橋さんは、学生たちに被災体験を語り始めた。「先生の活動に加わったおかげで、『私は私でいいんだ』って思うことができたのが、すごく大きいです」と髙橋さん。金菱さんは「学生たちは必ずしも災害に興味があるわけではなくて、果たしてどうやったら彼らの心に刺さるものかということを試してみたかったんです。学生たちの反応は毎回違うんですよね。不思議なことで、彼女自身が持っている言葉の力に、学生たちの表情も変わっていく」という。

髙橋さんはこのところ、体力的なきつさと謝礼だけでは活動費をまかなえないことから、語り部に消極的になっていた。そんな髙橋さんを奮い立たせたのが、一人息子の颯丸(かぜまる)さん(29)だ。何度誘っても断られていたのに、2023年3月に語り部として活動することを決めたのだ。髙橋さんは「いずれは息子にも語り継いでほしいと思っていたので、その扉が開かれそうで安心した」とうれしそうだ。

■研究が和らげる当事者の痛み
髙橋さんは、金菱さんが自身の心の内を本に記録してくれたことが、語り部活動の大きな基礎になっているという。「学生が学術書として読むものに残ったことは、すごく安心感につながったんです。金菱先生と一緒にやっているから、自分は東日本大震災の語り部として活動していってもいいんだという自信を持つことができたんです」

髙橋さんだけでなく、妻と孫を失った佐藤さんもまた、金菱さんの本を読むたびに心の慰めになるという。「人の思いを研究してくれる金菱さんの存在は、心のよりどころになっている」。佐藤さんの言葉は、金菱さんの研究が当事者たちの痛みを和らげてきた証である。

■今、記録することの意味を問う
金菱さんは、被災者を直接的に救うために研究を始めたわけではない。研究を進める中でさまざまなテーマに触れ、求められている課題を探し、記録し続けてきた。やがてその成果が、被災者の心のよりどころとなっているのに気がついた。震災から12年目を迎えようとするいま、金菱さんは被災者の声を記録する意味をどう考えているのか。

「記録しているその時は価値が分からないですが、時を重ねていくうちに価値や意味を持ち始めるのだと思います。結果として研究成果を当事者の方々に評価してもらえたことは、12年という時間を経て初めて知れたことです」

東日本大震災のような大きな災害に見舞われたときに、人はどのようにして愛する者の死を受け止めるのか。「その答えを導き出せた時に、目の前にある問題を突破する一つの方法として示すことができるかもしれない」。その研究は、まだまだ終わることはない。

クレジット

演出・撮影・編集:森田雄司
プロデューサー :前夷里枝
記事監修    :国分高史・中原望

ドキュメンタリー作家

84年京都生まれ。京都精華大卒後、愛知・大阪の映像制作会社で7年間TVディレクターを務める。ケーブルTV、市政番組、YTV「情報ライブミヤネ屋」などを担当。14年から上京、映画制作スタッフとして国内からハリウッドの商業映画製作に参加。2020年独立し、フリーランスのカメラマン・ディレクターとしてNHK BS番組、「北欧、暮らしの道具店」などドキュメンタリー作品を手掛ける。23年4月よりミシュラン一つ星シェフを追った初監督作品「sio/100年続く、店のはじまり」が全国劇場公開。その他企業PVやライフワークとして数多くのドキュメンタリー制作を続けている。