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【寝屋川市】知る人ぞ知る寝屋川随一の紫陽花の名所に。八幡台の八幡神社に咲く色とりどりの紫陽花が見頃。

neyamon

地域ニュースサイト号外NETライター(寝屋川市)

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八幡台にある八幡神社で、色とりどりの紫陽花が見頃を迎えています。

八幡神社の創建年代は、はっきりとしないのですが、ご祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)で、秦河勝が応神天皇を勧請したということです。

これは、元和9年(1623年)の棟札に「奉 管上(勧請)宇佐八幡宮御社」と書かれてあったことが基となっています。

色とりどりの花手水が美しいですね。

明暦3年(1657年)の灯篭、寛文2年(1662年)の鳥居があります。

明治5年に旧秦村(現在の町名で言うと東は池の瀬町、西は本町までの広い範囲)の氏神として、村社となります。

また、昭和10年に、大雨で裏山が崩れて神社も崩壊しましたが、翌11年10月に再建されています。

平成12年には、細屋神社とともに、宗教法人八幡神社に認証されます。

現在は、八幡神社の境内に遷されている細屋神社は、元は太秦桜が丘のコナズ珈琲の裏の鎮守の森のなかにありましたが、ここに遷移されました。

細屋神社は、市内に三社ある式内社(しきないしゃ=平安時代に編纂された「延喜式(えんぎしき)」に記載されている神社で延喜式内社ともいわれます)の内の一社で神楽田(かぐらでん)という小字の地(現太秦桜が丘)に鎮座していました。

秦 八幡神社は、平成24年9月5日には、火災で拝殿、本殿とも焼失しましたが、平成26年に再建されたのが、現在の拝殿、本殿です。

大雨での倒壊、火災による焼失後、いずれも、素早く再建されていることがわかります。

神社の再建は一般家屋の再建とは違って、費用もかかりますが、秦 八幡神社の氏子の皆さんの鎮守様に対する思いの結集と言えるでしょう。

この紫陽花も平成26年の再建後、地域の憩いの場になるようにと、平成29年に鎮守の森に植え付けを行いました。

ところが、翌年の台風21号で、境内の樹木の多くが倒れてしまいます。

本殿の焼失後、やっと再建したと思ったら、今度は鎮守の森の木が、なぎ倒されてしまう事態となり、氏子さんが自宅にあった色とりどりの紫陽花を持ち寄ってなんとかしようと考えたのが始まりです。

現在は小道も整備され、パラソル付きのテーブルとイスが置いてあり、台風でなぎ倒された木の切り株も休憩できるように、イスとして置いてあります。

紫陽花の世話をしている氏子さんによりますと、八幡神社の紫陽花は、種類が豊富なことが、特徴。いろいろな種類の紫陽花をご自宅で挿し木をして株を増やし、数年育ててから神社に植え替える作業を続けて来られたそうです。

毎日、水やりに来ても天気の良い日には、紫陽花が萎れてしまうので、根元にたっぷり水やりをしておられました。毎年、花が咲き終わった後の剪定も大切です。こうして、世話をしている方がいるからこそ、こんなに綺麗に咲くのですね。
紫陽花鑑賞のおすすめは、雨上がりと朝だということです。

寝屋川を挟んで、こちらも紫陽花が見頃となっている打上川治水緑地にも近く、散策しながら歴史ロマンに思いを馳せるのも良いですね。

八幡神社の前を流れる寝屋川。
欄干の意匠は、はちかづき姫です。

秦氏とは
秦氏は古代の渡来氏族で、日本に大陸の先進技術を持ち込んだ氏族であり、10万人を超えるような大人数であったということなどから、日本を大きく変える原動力になったとされる氏族です。秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦とされており、山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与したと言われています。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされています。河内国讃良郡(現寝屋川市)にも「太秦」の地名があり、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土しています(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(寝屋川市太秦中町)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果があります。
Wikipedia 秦氏

【施設情報】
秦 八幡神社
御祭神 誉田別命、別雷神
住所: 〒572-0014 大阪府寝屋川市八幡台11−5
電話: 072-827-4640

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