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400年の歴史が生む焼き物の芸術 薩摩焼の伝統と父との葛藤を乗り越え挑む究極の美

新田義貴映画監督、ジャーナリスト

乳白色の素地に、繊細で可憐な装飾。鹿児島の地で長年受け継がれてきた薩摩焼を代表する「沈壽官」の作品だ。沈家のルーツは400年以上前の朝鮮半島にさかのぼる。異郷の地で15代、数々の苦難を乗り越え究極の美を追い求めてきた。幕末、その作品はパリで花開き、”SATSUMA”として世界に知られる。本作では「薩摩焼の真髄を世界に伝えたい」と再びパリで挑んだ歴代沈壽官展、そしてその後に生まれた父親との軋轢。伝統の世界で“代を重ねる”ということはどういうことなのか。「土に祈り 火を畏れつつ」。歴史を守りながらなおも革新を続ける陶芸家、十五代沈壽官を10年にわたり記録した。

【薩摩焼を代表する工房を率いる十五代沈壽官】
鹿児島市から西へ30キロ。薩摩焼の里、美山という集落に沈壽官窯はある。現在の当主、十五代沈壽官は東京の大学を卒業後、京都やイタリア、韓国で陶芸の修行を重ね1999年に父十四代沈壽官から十五代を襲名した。十五代はひとりの陶芸家であると同時に、20名以上の職人たちを率いる経営者でもある。成形から絵付け、装飾まで、チームワークが作品の質を支える。なかでも沈壽官の代名詞ともなっているのが、器の表面をくり貫いて装飾する高度な技法である「透かし彫り」だ。十五代は言う。「これからの時代はグローバルでボーダレス、デジタルな世の中だと言われるが、本当は真逆なのではと僕は思っている。ローカルでアナログでドメスティックなのではないかと。そこでしかできない、そこだからこそできるものじゃないと、本当の意味での価値は生まないと思うからだ。」

【朝鮮半島から連れてこられた陶工の末裔として】
美山から西へ行くと東シナ海に突き当たる。そこに広がる美しい海岸、串木野の浜。沈家の先祖は400年以上前にこの浜に上陸した。1592年、時の権力者豊臣秀吉は明の征服を目論見、その足掛かりとして朝鮮半島に兵を送った。薩摩の大名、島津義弘も秀吉から命じられ出陣。しかし朝鮮側の抵抗は激しく、秀吉の死をきっかけに日本軍は撤退する。この時、およそ80名の朝鮮人陶工が島津義弘によって薩摩に連れて来られた。沈家の祖先もこの中のひとりだった。上陸した陶工たちは初め、この浜に窯を作り焼き物を始めた。その後各地を転々としたあげく、ようやく苗代川(現在の美山)へと落ち着いた。初代の沈当吉は島津家の庇護の元、苗代川で焼き物を始め薩摩焼が誕生する。陶工たちはやがて白土を発見し、美しい「白薩摩」を焼き上げていった。朝鮮半島をルーツに持つ沈壽官の作品は、時とともに日本を代表する工芸品へと発展していったのだ。鹿児島県歴史・美術センター黎明館学芸員で長年沈壽官の研究を続けてきた深港恭子はこう語る。「彼らはそれまで日本になかった製陶技術をもたらし、薩摩の風土と融合させ、薩摩焼という独自の焼物を育んだ。薩摩焼の歴史は異文化の衝突と融和、そして新たな文化の創造と醸成である。」

【パリで開花したSATSUMA、そしていま再びパリへ】
幕末、薩摩焼は世界の注目を集めることとなる。そのきっかけが1867年に開催されたパリ万博だ。薩摩藩は江戸幕府とは別に展示場を設け独自に工芸品を出品した。なかでも日本人の美意識を象徴する薩摩焼はヨーロッパの人々を魅了した。薩摩焼はSATSUMAと呼ばれ、日本の陶器の代名詞となっていった。ところが明治に入るとこの人気に乗り、薩摩焼をまねた粗悪品が全国で生産されSATSUMAとして欧州に大量に輸出された。今でもパリの骨董品店を訪れると、こうした品物に出くわすことがある。十五代は「もういちどヨーロッパの人びとにSATSUMAという陶器の核心を改めて見つめ直してほしい」との願いから2010年10月、パリで歴代沈壽官展を開催する。会場には沈家の歴代の作品およそ100点が一堂に会し、展覧会は盛況のうちに終わる。

【父十四代との軋轢、代を重ねるということ】
 パリでの展覧会を成功させた十五代に思わぬ試練が訪れる。父十四代との関係に微妙な変化が生まれたのだ。十四代沈壽官(2019年永眠)は、戦後の苦境のなかから沈壽官窯を蘇らせた伝説の陶工だ。その人生は司馬遼太郎の小説「故郷忘じがたく候」にも描かれている。しかし名声を獲得していく息子の十五代に対して、十四代は厳しく当たった。十五代はこのことをきっかけに心身のバランスを崩し5年にわたり苦しむこととなる。そして私の撮影もこの5年間は中断せざるを得なかった。「同じ道を歩む親子にはあることだ」と十五代は当時を振り返る。そして今は、「父が自分をより強くするために与えた試練だった」と考えている。「父の中には僕はいないが、僕の中に父がいる。僕の中には歴代歴世がいる。その人たちが僕を動かしている」。その巨大な存在だった十四代も去年6月、92歳で他界。十五代は今、薩摩焼を通して「命のメッセージ」を伝えたいと新作に意欲的に取り組んでいる。「命を描くにはその傍らに死がある」。父の死を通して十五代が感じたものを、私たちは今後の作品で観ることができるはずだ。そして今、いずれ十六代を継ぐであろう長男の泰司が十五代の元で修行を続けている。代を重ねてきた沈壽官の遺伝子が今また受け継がれようとしているのだ。11月、横浜に沈壽官の作品がやってくる。十五代が作品に込めた「命のメッセージ」をぜひ感じ取ってほしい。

横浜髙島屋 「薩摩焼 十五代沈壽官展」
 会期:令和2年11月18日(水)~ 24日(火)
 場所:髙島屋横浜店 7階 美術画廊
 お問い合わせ:045-311-5111

最後に
この作品は今年5月にリリースされたDVD「薩摩焼を生きる 十五代沈壽官」(ミディクリエイティブ)を再編集した。そもそもの企画者は、YMOや矢野顕子のマネージメントを経てミディレコードを設立し、日本の音楽業界に大きな足跡を残した大蔵博である。一緒に鹿児島やパリを訪れた情景は、今もよき思い出として私の心に残っている。残念ながら大蔵氏はDVD発売のわずか4日後に他界された。ご冥福をお祈りするとともに、沈壽官を心より愛した大蔵さんにこのショートフィルムを捧げたい。

クレジット

企画 大蔵博
音楽 関俊行
監督・撮影・編集 新田義貴
プロデューサー 前夷里枝
制作 ユーラシアビジョン

映画監督、ジャーナリスト

1969年東京都出身。慶応義塾大学卒。NHK報道局、衛星放送局、沖縄放送局などで、中東やアジア、アフリカの紛争地取材、沖縄の基地問題や太平洋戦争などに焦点を当てた番組制作を行う。2009年独立し、映像制作ユーラシアビジョンを設立。テレビや映画など媒体を超えてドキュメンタリー作品の制作を続けている。劇場公開映画は、沖縄の市場の再生を描いた「歌えマチグヮー」(2012年)、長崎の被爆3世が日本の原子力の現場を旅する「アトムとピース〜瑠偉子・長崎の祈り」(2016年)。

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