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首里城地下に眠る戦跡 司令官の孫が祖父の足跡を追うと決めた「長い宿題」

新田義貴映画監督、ジャーナリスト

去年10月31日に焼失した首里城の地下に、かつて巨大な日本軍司令部壕があったことはあまり知られていない。この壕の調査を20年以上にわたって続けてきた人がいる。沖縄戦当時の日本軍総司令官・牛島満中将の孫、牛島貞満さんだ。牛島さんは祖父が決断した「南部撤退」により、多くの民間人の犠牲者が出たことに心を痛めてきた。首里城再建と合わせて司令部壕の公開を求める声が広がる沖縄で、牛島さんの活動を追った。

【司令部壕の調査を続ける牛島貞満さん】
「首里城が燃えてるよ、という妻の声で起こされました。とても驚きました」
10月、東京から調査のために沖縄入りした牛島貞満さんと共に首里城を訪ねた。多くの重要な建造物が焼失した首里城は、2026年の完成を目指し再建の途上にある。しかし実は首里城は1945年の沖縄戦でも焼失している。地下に日本軍の司令部壕があったためにアメリカ軍による激しい攻撃にさらされたのである。現在、首里城を観光していて司令部壕の存在に気付く人は少ないだろう。守礼門を通り抜けて歓会門に向かう道を左に折れて下ると、目立たないところに「第32軍司令部壕」と書かれた表示板が置かれている。その先の茂みの中に鉄格子がはめられた横穴があるが、ここは司令部壕の入り口ではない。掩蔽壕と呼ばれる警備兵のための避難壕で、司令部壕に付帯する関連施設であるとされる。現在、首里城の敷地内にかつての司令部壕を思い起こさせるものはひじょうに少ない。しかし戦争中、その地面の下には全長1キロにも及ぶ巨大な地下要塞が張り巡らされていたのである。

【司令部壕公開を求める機運の高まり】
 焼失からまもなく1年となる2020年10月10日、牛島さんは首里城近くにある首里公民館で行われた「第32軍首里司令部壕」に関する勉強会に招かれ講演を行った。「地上には琉球王朝文化の粋を集めた首里城。地下には戦争の負の遺産である第32軍司令部壕。訪れた観光客がこのふたつを同時に見学することで、沖縄の歴史をより深く学ぶことが出来るのです」。牛島さんは人々に語りかけた。この日の会場には高校生や大学生など若者の姿も目についた。話を聞いた若者のひとりは司令部壕の存在すら知らなかったが、これからは積極的に自分たちも発信していきたいと語り、司令部壕を題材にしたアートイベントを仲間と企画しているという。玉城デニー知事は世論の高まりを受け、有識者による検討委員会を設置する考えを示している。公開の機運が高まる司令部壕にはどんな歴史があったのか。

【「南部撤退」の決断が下された重要な戦跡】
 沖縄戦を戦った第32軍は首里城の地下に司令部壕を構築し、牛島満中将以下首脳部がここで作戦を立案。沖縄戦における重要な決定が下された。なかでも沖縄の人々の運命を左右したのが、「南部撤退」である。日本軍は当初、首里に防衛戦を引いていたが、北から押し寄せる米軍の圧力に耐えきれず、多くの住民が避難していた南部に司令部を移し持久戦を行った。それにより南部は住民と日米両軍が混在する戦場と化し、多くの住民が犠牲となった。戦後沖縄では、こうした重要な決断が行われた司令部壕の公開を求める声が幾度となく上がってきた。平和行政に心血を注いだ大田昌秀知事時代には公開の機運が高まり基本計画も策定されたが、98年の知事選で大田氏が敗れると立ち消えになった。牛島さんは97年に司令部壕の内部調査を行い、ビデオ撮影するなど貴重な記録を残している。しかしその後も司令部壕は地下に眠ったままだ。「岩盤崩落の危険がある」というのが壕を管理する沖縄県の見解だが、首里城を観光に来た人々に戦争遺跡を見せることに抵抗感があったのかもしれない。それが、首里城焼失をきっかけに沖縄戦体験者らが「首里城再建に合わせて司令部壕の活用を」と声を上げ、20年ぶりに司令部壕公開の議論が再燃したのである。牛島さんもこの動きに呼応し、今年は何度も沖縄に渡って調査を加速させている。

【司令官の孫として 長かった沖縄への道のり】
幼少期の牛島さんにとっての祖父の印象は、応接間に飾られた軍服を着た写真だけだった。周囲の大人からは「おじいさんは立派な人だった」と言われて育ち、中学1年生まで毎年靖国神社に参拝した。しかし思春期を経て少しずつ疑問を抱くようになり、やがて「祖父の命令で多くの人が犠牲になった」と認識するようになったという。
その後小学校の教員になった牛島さんだが、広島や長崎の原爆投下についての平和授業は行うものの、なかなか沖縄については触れることができなかった。40歳の時、初めて沖縄を訪れ平和学習のツアーに参加した。その時、ガイドに牛島満中将の孫であることを告げたところ、「おじいさんの足跡を通して沖縄戦の歴史を調べてみませんか?お手伝いしますよ」と声をかけられ、現在までつながる「長い宿題」をもらった。その後は何度も沖縄に足を運び調査を続け、平和授業という形で子供たちに沖縄戦の実態を伝える活動を続けてきた。「祖父から1字もらった名前をつけられた者として、これは逃れられない宿命だと思っています」。

【沖縄戦体験者から話を聞く】
 牛島さんはこれまでも多くの戦争体験者から話を聞き、沖縄戦の実相を捉えようとしてきた。今回訪ねたのは那覇市に住む儀間昭男さん(92)。沖縄師範学校在学中の17歳の時に鉄血勤皇師範隊に学徒動員された。首里城の城壁横に作られた壕で寝泊まりしながら毎日歩いて司令部壕に通い、艦砲射撃が降り注ぐ中、壕掘りで出た土砂をトロッコで壕の外に運び出す作業を続けた。牛島さんはいま最もこだわって調べている換気口の場所について聞き取りを行った。米軍などの資料により、司令部壕には空気を入れ換えるための換気口があったことが分かっているが、牛島さんはその位置を特定したいと考えている。換気口のちょうど下は酸欠のリスクが低いため作戦室や通信室など司令部の中枢機能が集まっていて、壕のなかでも特に重要な場所だからだ。しかもその地下部分は75年間未調査のままなのである。儀間さんは換気口があったことは記憶していたが、残念ながらその位置までは特定できなかった。儀間さんは司令部の南部撤退後に命令を受け摩文仁まで撤退。その後も軍と行動を共にし多くの学友を失った。鉄血勤皇師範隊は生徒386名が動員され、うち226名が犠牲となった。

【答えを探して 旅は続く】
 牛島さんは司令部壕の公開を求める世論の高まりが、最後のチャンスだととらえている。ただ公開するためには内部の調査がまだ不足していて、分かっていないことも多い。土砂が崩落して入れない部分もある。こうした課題をどう解決していくのか、少しでも沖縄の人々の力になれればと考えている。そして、牛島さんにとってもうひとつ大きな課題がある。「祖父はなぜあのような決断をしたのか」。その答えを探し求めて調査を続けてきたが、その旅はまだまだこれからも続くようだ。取材の最後に訪れた摩文仁から帰る車の中で牛島さんがふと漏らした言葉が強く印象に残っている。
「私は生涯、牛島満の亡霊と共に生きていきますよ」
激動の歴史の舞台を生きた祖父を持ってしまった牛島さんの葛藤が、少しだけ垣間見えたような気がした。

監督・撮影・編集 新田義貴
プロデューサー 伊藤義子
制作 ユーラシアビジョン

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監督・撮影・編集 新田義貴
プロデューサー 伊藤義子
制作 ユーラシアビジョン

映画監督、ジャーナリスト

1969年東京都出身。慶応義塾大学卒。NHK報道局、衛星放送局、沖縄放送局などで、中東やアジア、アフリカの紛争地取材、沖縄の基地問題や太平洋戦争などに焦点を当てた番組制作を行う。2009年独立し、映像制作ユーラシアビジョンを設立。テレビや映画など媒体を超えてドキュメンタリー作品の制作を続けている。劇場公開映画は、沖縄の市場の再生を描いた「歌えマチグヮー」(2012年)、長崎の被爆3世が日本の原子力の現場を旅する「アトムとピース〜瑠偉子・長崎の祈り」(2016年)。

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